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2018年5月26日 (土)

『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」の暗唱・暗記は、1アヤからの事。  「木綿」とコットンとの違いの事。「クワのイチコ」とストロベリーの違いの事。 

ヲシテ時代中期の頃の「日本語」には、
5・7調の基本文体が出来上がってきた時代性が、
うるわしく結実しています。
わが国の、文体・文章の精緻さの基礎は、
やはり、ヲシテ時代の中期ごろに、
暗唱・暗記の範を求めるべきだと、思っています。
まあ? 何のことか?
ヲシテ時代の、この長い歴史から見てみましょう。
縄文時代の前期頃から、
古墳時代の初期にかけての、
実に、3000年余りもの長い年月が、
ヲシテ時代です。
時代の区分表をUPします。
『ホツマ辞典』に掲載しています。
Amakami
さて、
7代のアマカミのイサナギ・イサナミさんの頃ですね。
ヲシテ時代の中期とは。
そして、
そのころ、「をしえのはじめ」には、
「キツのナ」(東西の名称のいわれのアヤ)
が、最初にと、
伝統的に語り継がれていました。
 
それは、
天地自然からの恵みが、わたくし達の生命を育み、
また、
父母のそのまた父母、さらにその父母と、
代々遡る、知恵と伝統の継承からくる恵みも、
わたくし達を育んでいる。
その事実に向き合って、
感謝をすることが、
現在の状況を正しく理解する、第一歩であるからです。
そこを、解き明かしてくれているのが、
『ホツマ ツタヱ』にしても『ミカサフミ』にしても、
1アヤです。
はじめ、
「キツのナとホムシ去るアヤ」
「キツ・ヨヂのアヤ」
なんて、
誰もが、戸惑う事でしょう。
どうして? 解かりにくいアヤが、一番最初なの?
 
ところがどっこい、
実に深い意味が込められているのが、
『ホツマ ツタヱ』にしても『ミカサフミ』にしても、
1アヤだったのです。
それに比べると、
『ホツマ ツタヱ』の奉呈文(0アヤの表示にしました、序文に相当)は、
書かれた時代も、ヲシテ時代の晩期であって、
文章の文法的な構造も、
現代文に近くて、うるわしくさが、うすいです。
ヲシテ時代中期の頃の「日本語」の5・7調の基本文体が出来上がってきた時代性から、
1000年近く時間経過が過ぎていて、
古文の風格に欠けて来ます。
わが国の、文体・文章の精緻さの基礎を、範と為すのは、
やはり、ヲシテ時代の中期ごろの文章ですね。
具体的に言いますと、
『ホツマ ツタヱ』なら、1アヤから23アヤぐらいまでが、
その範にと成ろうかと思っています。
大きな文章の文法上の違いを言うと、
ひとつ、時代が降ると、複合動詞が増えてくる。
要するに、読み易く解かり易い文章になって来ます。
本当の古文の大切さは、
文法・文章の編みあげられて行く、その時代性を感じる事なんですね。
だから、本当の母国語の源流に焦点を当てることが出来得るのです。
こういった意味で、
わたくしは、
ヲシテ時代中期の頃の「日本語」には、
5・7調の基本文体が出来上がってきた時代性、
この貴さを、言いたいわけですね。
そこが、よく長年の来るの結果として、こなしてきた人間としての、
役割じゃないかと思うんですね。
つまり、
1アヤからの、暗唱・暗記を提唱しています。
そう言った意味で御座います。
               ・
クワのイチゴのことがありました。
Kuwa1
「イチコを(お) はみて(食べて)
うるおえは ながらい(長命を得て)」
と、『ミカサフミ』にありますが、
Itiko_2
直訳しましたら、現代語にですが、
ストロベリーに間違えやすいです。
蔓性のストロベリーの品種は、明治以降に導入されたものですから、
『ミカサフミ』の「イチコ」は別モノですね。
それは、文脈上から言いましたら、「クワ」のイチコであることが明白です。
あれ、?
さっき女房と採っていて、
写真がピンボケで、
もう一回撮ろうとしましたら、
葉っぱは、もうお浸しになっていました。
おいしそう。
イチコの方は、砂糖を入れて煮るのだそうです。
また、京都のヲシテ講習会に持って参ります。
 
クニトコタチさまの時代、その長命の時代の、
智慧が、クワのイチコにあったようです。

 なお、
木綿と、コットンの違いのことも、
間違いやすい話です。
「ユフ」の用例や、
「ヌノ」の用例も多いですが、
間違いやすいのが、
江戸時代以前にはコットンは無い事ですね。
つまり、実物としてのコットンになるのは、「木綿」の表現がですね、
江戸時代以降なんです
まあ、ややこしい。
この説明をしていたのでしたが、
ついさっきの来客の方も、
まだ、
心底からの納得には至っていないようでした。
まして、
ヲシテ時代の真実にもなれば、
江戸時代からの近々の錯誤よりもむつかしい事で御座います。
あー、あっ。
で御座います。

 

 

2018年5月18日 (金)

トのヲシテのこと、うるを得るということ。継体天皇の事。敦賀・福井の旅の事。

継体天皇のことは、ヲシテ時代以降の日本の歴史を考えるうえで、
重要なポイントのひとつです。
Toniuruoeru
福井県の、
三国神社に参拝にあがりましたら、
ふり姫様の墓所ではないかとの、
その、お祭りのところに巡り会いました。
Hurihimessann
そう言って、由来の石碑を読んでいましたら、
突然にホトトギスが鳴き始めました。
トリは何でも知っている。
と、そう、感嘆したわけで御座います。
Hurihimesann1
 コシのクニは、色々な面でヲシテ時代の中期あたりにも、
注目されるところです。
いまだに、『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」の現代の発見後、
50年を経ても、解き明かせていない事が多いです。
三国神社の社叢には、アオサギがにぎやかに営巣していました。
瀧谷寺の「天の図」も、見事でした。
 
 
白山比咩神社にお参りをと、
そう、越前海岸を北上していましたら、
「ミミタコ」に出会いました。
Mimitako
道の駅でヒトパックだけありました。
おうどんに入れたら、とっても美味しかったです。
世界は広いですね。
「ミミタコ」だなんて!
イイダコの一種だそうです。
Img295
他にも、ウタを詠みました。
Uta1
トリと言えば、
越前海岸で、あらたな名所が見つかったそうです。
呼ぶ鳥門で、呼鳥門(こちょう もん)だと、命名されたそうです。
Yobutorimonn
県道の建設中に発見されたとの事。
近々の事ですね。
Kosinokaigann2
白山比咩神社のケヤキの樹がとっても立派でした。
Sirayamahime
こっちからも見てみます。
Mikunijinnjya_2
元の社殿の有った故地のお山は、
時間的に余裕が無くて登拝は出来かねました。
Sirayamahime1
また、折りを見て巡拝したいです。
 
幾つもの新発見が、
ヲシテ時代の中期ごろの時代の解釈で、
出てまいりました旅でした。
また、書籍にそのうちに纏めてゆきたいと思っています。
帰りがけには、
日野山が、ヒナルノタケですね。
雲が晴れて、うつくしい姿でした。
Hinakatake
 
― 追記 ―
ウタを詠みました。
Momotoswe
裏の文字が写らにようにと、
あちこちにと、ホワイトを塗って置きましたら、
見栄えが返っておかしくなっても、感じてしまいました。
要らぬお世話は、よした方が良いかも?
そんなことを、
思い感じまして、
ヲシテの文字のルビも振りませんでした。ちゃんと読める人は、そんなルビなんて、かえって邪魔ですものね。ルビなんて。
 
空腹感を覚えまして、
なにか?
と思いましたら、
女房は、お昼寝でした。
なにか、美味しいものを作って、
匂いで昼寝の夢をおこしてやりましょうか?
さてさて? おいしそうなものは、どこかにあるか?

朝方から、
ソデイカ、タルイカ、アカイカのこと、
同一のおいしいイカであるとの事、
理解が進んでまいりました。昭和の30~40年代から、
ソデイカの漁は新開発が展開されたそうです。
いつの時代も、アグレッシブですね。
ソデイカの事、
前々から、どうしてこんなにもソデイカッて、おいしいのか?
と、
思っていました。
新しい漁法によって、現代にわたくしたちの食物として日常にも運ばれるようになったのですね。うれしい事で御座います。
それはともうしますと、
極めて不思議なことに、
どうしてこんなにも、日本的な現代の言葉とフイットしての、
ソデイカさんなのか?
不思議です。
とても美しのです。
ダンスのソデイカさんはです。
ちょっと、余談に逸れすぎていましたので、
もちろん、ご興味のないお方様は、
もちろんのこスルーなさって下さいませ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2018年5月 6日 (日)

川喜田半泥子を偲ぶ会の事。三重県陶芸作家協会の協賛の事。 対人関係の学びの事。「ヲシテ国学」への路行きのこと。

女房から、近所の百貨店でのチャリティーの展覧会の事で、

何を出したらいい? って聞かれました。

三重県では、川喜田半泥子(かわきた はんでいし)は有名です。

昭和の初期の、魯山人や、小林一三などとも交流が深いことも知られます。

やっぱり、お茶関係ですから。千歳山荘(ちとせ さんそう)の修復の動きがありまして。

Hanndeisi2

でも、もう決めているんですよね。女房は。

つまり、確認の事です。これでいいかな? って聞きたいんです。

この頃は、美意識について、お互いに意見を聞き合うような、

そんな間柄にも、徐々になって来ました。

むかしは、ぜんぜん無視されている状態だったことも多かったんですけれど。

もう、割れ鍋に綴じ蓋のわたくし達ヘンテコのカップルも、

ビックリで、一緒に暮らし出して35年は過ぎたようです。

絶対にすぐ別れるとの、女房の友人たちの下馬評は、

全部外れました。最長でも、6か月でしたですから、予想なんて、何にもあてにはなりません。

こんな、しょうもない、話をしてしまってすみません。

要は、夫婦仲はよそからは、理解不能だという事でしょうね。

対人関係とは、微妙で100%の解決や100%の回答を得ようとしたら、

それは、所詮無理な事なんですね。

大宇宙の巡りと、同じだと思うと、

ハッと、うまくゆくのだと思います。

われわれ、ヒトのひとりひとりが、

小宇宙体だという事。

これを、この事実を受け入れれば、

何でも上手く運んでゆくのだと思います。

          ・

良いところ、そうでもないところ、

表を見たら、長所で、

裏から見たら、それは短所でしょう。

といった、コインの裏表の感覚も、空気のような自然の理解にもなってきたんでしょうか?

今回は、

三重県の陶芸作家協会に、声が掛かったので、

女房としては応じるという事です。

Hanndeisi1

女房は、結婚前の名前でずっとやっていましたので、

森みの里(もり みのり)です。

本名は森みのりですけれど、ちょっとしゃれて、「り」を「里」の字で書いていました。

そうしたら、「り」って読んでくれない人も多かったと言います。

Hanndeisi3

やっぱり、自分の好きな、象嵌の模様がいいんだと言うのです。

さて、この

お茶碗です。

Hako2

それで、

帛紗を広げてみてみました。

ちょうど、お目出度い、藪の内流の宗匠の、

延壽の帛紗が綺麗な色で映えるかと思いました。

写真写りが良いようにと。

Hako1

藪の内流は、武家手前で、なかなか格式が高いです。

Umetyawann1

さて、

ウロコ紋の帛紗にも乗せてみました。

Umetyawann2

ウロコのことは、『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」にも出ていて、

魔よけの意味が強く打ち出された紋様です。

初春に良い茶碗だと思います。

Uroko

さて?

チャリティーとはいえ、

買って下さって、ご愛用して頂けましょうか?

お茶碗は、使ってもらえてこそで御座います。

         ・

 

「ヲシテ国学」へは、長い路のりで御座います。

女房だって、読み書きが、

ホツマ文字と言いますか、ヲシテの文字のですね、

スラッと出来るようになったのが、

まあ、30年ほどはかかって、

つい5~6年前のころからですもの。

なんたって、時間が掛かりますよ。

1300年来の、揺り戻しです。

 

『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」は、

余りにも膨大に詰まった巨大な内容量です。

『ホツマ ツタヱ』だけでも、

理解が大変! とてもとても大変!

そのうえ、『ミカサフミ』も、『カクのミハタ』など、『フトマニ』何やかやもあるんです。

『ミカサフミ』には、平成24年に新発見の『ミカサフミワカウタのアヤ』も、

また、新たに出現しましたのでしたから、

膨大にも過ぎる内容量です。

国語の根幹からの、やり直しにまさに、遭遇しました。

これが、今現状の正確な認識です。

わが国って、本当の意味で大文明が縄文時代からだったんですね。

 

とにかくも、

『ホツマ ツタヱ』は世々のおきての、基本の理解事項ですから、

必須のこなしてゆく文献です。

『ホツマ辞典』の在庫が無くなってきたと、

展望社からのFAXが今朝ありまして、発送致しました。

結構、体力仕事のところもあります。

 

「ヲシテ国学」の世間的認知に向けての事々は、

まだまだ、先が長い事で御座います。

長生き、長生き、ながいき、 元気で! です。

 

1段階目、直訳の「ホツマ(秀真伝、しゅうしんでん)」を読んでいっぱしになった気でいる。

2段階目、ホツマ文字、本当は、ヲシテ文字というべきの読み書きが出来てくる。

3段階目、『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」を原字・原文で読んでみると、

「直訳の秀真伝(しゅうしんでん)」は、なんかおかしいと気が付いてくる。

4段階目、さて? 『古事記』『日本書紀』と比較をし始めると、あれ?『古事記』って、ホントにおかしげだったのね! と気が付いてくる。

5段階目、『ホツマ辞典』を見てみようか? と、思い始める。「直訳の秀真伝(しゅうしんでん)」はどうおかしいのか? ちょっと知りたくなる。


それで、今朝に、また発送という事です。

 

とにかくも、時間が掛かります。ウチの女房は、助走が、30年ぐらいでした。

よくこんなのしてたのね。の女房の感想でした。すぐそばで居ていたのに。

『ホツマ辞典』に付属の「系図」を、

このごろ、女房はご愛用です。

 

 

 

 

2018年5月 1日 (火)

葵祭りとタマヨリヒメのこと。神武天皇のご誕生の秘話の事。 もうひとつ前のトヨタマヒメの物語りの事。

京都の葵祭が近付いて来ました。

拝見にという事も、あるようです。

でも、御蔭(みかげ)祭りが先行して挙行されることは、

余り知られていませんが、

実は、神武天皇のご誕生の秘話に属することだったんです。

 

ひどいことに、

ふつうの『古事記』『日本書紀』で見聞きしていた事柄とは、

ガラッと違って、涙ながらの話です。

かいつまんで説明しましたら、

12代のウカヤフキアハセスさんのとき、

お世継ぎのご誕生がなかなかなかったのでした。

そこで、

ヤセヒメさんが、お若くして入内なさって、

ヰツセのミコが誕生されました。

ところが、病を得てヤセヒメさまはお亡くなりになってしまわれました。

緊急にはヰツセのミコのお育てをどうするか?

そこで、

良いお方が居ると、タマヨリヒメが推薦されてきたのでした。

タマヨリヒメは、カモのタケズミさんのご子孫だったのでした。

そして、タマヨリヒメの籠っておられたのが、ミカケのところ、

今に言う、御蔭神社(みかげ じんじゃ)ですね。

そのご縁から、タマヨリヒメが入内なさって、

タケヒトさま(のちの神武天皇)をお産みになられるわけでした。

さて、

『定本ホツマツタヱ』の27アヤのところ、

を見てみましょう。

Tamayori6

Tamayori5

Tamayori4

Tamayori3

Tamayori2

Tamayori1

いかにもごっそりちょん切っていますね。

その切られて、改竄されてしまった結果、

「ワニ」の産んだような変な話にされてしまっています。「八尋の鰐」ですよ、ひどいおとしめの誤訳も、コト至れりです。

ひどい話です。

こんなにひどい貶めをされてディスられていても、

「直訳偽書の秀真伝(しゅうしんでん)」で汚染されちゃってる人も、

やっぱり、まだ、幸せなお花畑の状態でしょうね。

この話をだけするだけで、かるく、一日は掛かります。

この『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」の真実性を証明する傍証のひとつが、

御蔭神社御蔭祭りにあったわけです。

すごい事ですね。

 

とりあえず、『定本ホツマツタヱ』の27アヤの該当箇所をUPしましたので。

もっと詳しく見たい方は、ぜひ『定本ホツマツタヱ』をお買いもとめ願います。

先日、在庫無くなりのために、

増し刷りをしまして、わが茅屋には在庫がいっぱいになっております。

どうか一冊、お手元に!

『古事記』『日本書紀』との詳細な対比が、

一目で見れます。

            ・

ー 追記 ー

そうそう、

もうひとつ前の物語だった。トヨタマヒメさんの事を書き忘れていました。

『ホツマ ツタヱ』の26アヤに詳しく出ている出来事です。

 

『定本ホツマツタヱ』を見てみましょう。

Toyotamahime1

Toyotamahime2

ここの個所も、思い切ってちょん切られてしまっていますね。

よく見ましたら、ほんと、とんでもないことをされちゃっていました。

わたくしは、歴史を直さねばと思います。

さて、

ザッとかいつまんで説明しますと、

事は、10代アマキミのニニキネさまの時代に遡ります。

水田稲作を、高地の灌漑水田にと革新的な新技術で、

世の中に豊かさを広げられていったのが、10代アマキミのニニキネさまでした。

その、全国巡幸の際、琵琶湖湖畔のシラヒゲさんは、去ってゆく去って行くって言われるんです。

シラヒゲさんは、初代クニトコタチさんの直系のご子孫だと、わたくしは推察しています。

父祖・先祖のお祭りのタケのイワクラ(岳山)の祭祀ももう放擲してまでして去ってゆくと言うんです。

そのことから、ニニキネさんは、

3人の皇子のうち、

2番目サクラギさんと、3番目ウツギネさん(のちの11代のホホテミさん)に、

アワウミ(琵琶湖)の西岸を中心とした、シラヒゲさんの去った後を任せたのでした。

そこで、いざこざが起きて、海幸山幸の物語になる出来事が、起きる訳です。

やがて、2番目サクラギさんは、策略を巡らしていた事がばれて自滅なさってしまいます。

九州のハテカミさんのもとに、援助を求めて行っていた3番目ウツギネさんに、

皇位の継承を定めるミコトノリが出されます、これで11代のホホテミさんのご即位になる訳です。

さて、

ハテカミさんは、アマテルカミの左に侍る程の重臣のカナサキさんのご子孫でした。

九州の統治について、アマテルカミのご名代を任されたお方でした。

 

さて、ウツギネさんは、

皇位の継承を定めるミコトノリを受けて、

急ぎの舟で、ミヤコのミツホのミヤ(野洲市の服部遺跡だったと思われます)に、

戻られることになります。

ウツギネさんのおキサキだった、トヨタマヒメは、

妊娠中の身重だったので、ゆっくりの舟にてツルガ(敦賀)に行く事になさいました。

ところが、

あにはからんや! より安全なはずのゆっくり舟は、難破してしまったのです。

何とか助かった、トヨタマヒメは、途中から、早や舟でツルガに向かったので、

思いの外に早期の到着になりました。

産屋がまだ、屋根の葺(ふ)かれていない状態で、

ご出産という事になりました。

それで、タケ・ウカヤ・フキアハセスのミコトと言うお名前が付けられたのでした。

ウカヤとは、産屋(うぶや)の意味です。当時は、別棟の産屋を建てて出産をするならわしでした。

さて、トヨタマヒメは、

産屋で涼んでいたら、

ウツギネさんが覗いたようだったのでした。

それを、トヨタマヒメははずかしいと、

九州の実家に戻ろうと、なさるのです。

キフネのところ、今の貴船神社のところまで行かれたところで、

ウツギネさんの急遽使わした使者の説得によって、とどまってもらう事になりました。

そばに付いていっていた弟のタケツミさんに面倒見てね、という、ニニキネさんのおこころがありました。

それで、

カモのところ、今の上賀茂神社を中心とした、

かつて、ニニキネさんが新田開発をなさった土地を任せられる、

運びになりました。京都の盆地の北の方ですね。

このことから、下鴨神社にはカモタケツミさんが祭られているわけです。

さて、ところがです、

トヨタマヒメは、長い日々、

ミヤコにのぼって来てくれません。

どうしても、恥ずかしいと、言うわけです。

そこで、

ニニキネさんは、

説得のために、トヨタマヒメのもとに赴かれます。

その際に、お示しになられたのが、

アオイの葉と、カツラの葉です。

アオイは、ヲ(温かさの季節)の象徴、男性の方のことも言います。

カツラは、メ(寒い季節、実になる季節)の象徴、女性の方のことも言います。

その、ニニキネさまの教導の御幸(みゆき)が、

葵祭りだったわけでした。

あー、なんて深い話だったんでしょうか!

詳しくは、

『縄文人のこころを旅する』にも、

書いておきました。ご覧ください。

『ホツマ縄文日本のたから』にも、

書いておきました。きっと、感動を覚えて頂けることだと思います。

わが国の、漢字以前の伝統って、本当は素晴らしかったんですよ!

 

トヨタマヒメの物語があって、

そのあとに、

タマヨリヒメの物語が、

積み重なっているのでした。

「八尋の大鰐」なんて、『ホツマツタヱ』など「ヲシテ文献」のどこにもない、

吐き気をもよおすほどのひどい話をでっち上げるのが、『古事記』『日本書紀』のやり口だったんですよ! みなさん!

やられっぱなしの、1300年間でした。本当の歴史を取り戻しませんか!

もう、そろそろ、本気で!!

 

 


 

 


 

 

 

 

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