『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」の暗唱・暗記は、1アヤからの事。 「木綿」とコットンとの違いの事。「クワのイチコ」とストロベリーの違いの事。
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女房から、近所の百貨店でのチャリティーの展覧会の事で、
何を出したらいい? って聞かれました。
三重県では、川喜田半泥子(かわきた はんでいし)は有名です。
昭和の初期の、魯山人や、小林一三などとも交流が深いことも知られます。
やっぱり、お茶関係ですから。千歳山荘(ちとせ さんそう)の修復の動きがありまして。
でも、もう決めているんですよね。女房は。
つまり、確認の事です。これでいいかな? って聞きたいんです。
この頃は、美意識について、お互いに意見を聞き合うような、
そんな間柄にも、徐々になって来ました。
むかしは、ぜんぜん無視されている状態だったことも多かったんですけれど。
もう、割れ鍋に綴じ蓋のわたくし達ヘンテコのカップルも、
ビックリで、一緒に暮らし出して35年は過ぎたようです。
絶対にすぐ別れるとの、女房の友人たちの下馬評は、
全部外れました。最長でも、6か月でしたですから、予想なんて、何にもあてにはなりません。
こんな、しょうもない、話をしてしまってすみません。
要は、夫婦仲はよそからは、理解不能だという事でしょうね。
対人関係とは、微妙で100%の解決や100%の回答を得ようとしたら、
それは、所詮無理な事なんですね。
大宇宙の巡りと、同じだと思うと、
ハッと、うまくゆくのだと思います。
われわれ、ヒトのひとりひとりが、
小宇宙体だという事。
これを、この事実を受け入れれば、
何でも上手く運んでゆくのだと思います。
・
良いところ、そうでもないところ、
表を見たら、長所で、
裏から見たら、それは短所でしょう。
といった、コインの裏表の感覚も、空気のような自然の理解にもなってきたんでしょうか?
今回は、
三重県の陶芸作家協会に、声が掛かったので、
女房としては応じるという事です。
女房は、結婚前の名前でずっとやっていましたので、
森みの里(もり みのり)です。
本名は森みのりですけれど、ちょっとしゃれて、「り」を「里」の字で書いていました。
そうしたら、「り」って読んでくれない人も多かったと言います。
やっぱり、自分の好きな、象嵌の模様がいいんだと言うのです。
さて、この
お茶碗です。
それで、
帛紗を広げてみてみました。
ちょうど、お目出度い、藪の内流の宗匠の、
延壽の帛紗が綺麗な色で映えるかと思いました。
写真写りが良いようにと。
藪の内流は、武家手前で、なかなか格式が高いです。
さて、
ウロコ紋の帛紗にも乗せてみました。
ウロコのことは、『ホツマ
ツタヱ』など「ヲシテ文献」にも出ていて、
魔よけの意味が強く打ち出された紋様です。
初春に良い茶碗だと思います。
さて?
チャリティーとはいえ、
買って下さって、ご愛用して頂けましょうか?
お茶碗は、使ってもらえてこそで御座います。
・
「ヲシテ国学」へは、長い路のりで御座います。
女房だって、読み書きが、
ホツマ文字と言いますか、ヲシテの文字のですね、
スラッと出来るようになったのが、
まあ、30年ほどはかかって、
つい5~6年前のころからですもの。
なんたって、時間が掛かりますよ。
1300年来の、揺り戻しです。
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」は、
余りにも膨大に詰まった巨大な内容量です。
『ホツマ ツタヱ』だけでも、
理解が大変! とてもとても大変!
そのうえ、『ミカサフミ』も、『カクのミハタ』など、『フトマニ』何やかやもあるんです。
『ミカサフミ』には、平成24年に新発見の『ミカサフミワカウタのアヤ』も、
また、新たに出現しましたのでしたから、
膨大にも過ぎる内容量です。
国語の根幹からの、やり直しにまさに、遭遇しました。
これが、今現状の正確な認識です。
わが国って、本当の意味で大文明が縄文時代からだったんですね。
とにかくも、
『ホツマ ツタヱ』は世々のおきての、基本の理解事項ですから、
必須のこなしてゆく文献です。
『ホツマ辞典』の在庫が無くなってきたと、
展望社からのFAXが今朝ありまして、発送致しました。
結構、体力仕事のところもあります。
「ヲシテ国学」の世間的認知に向けての事々は、
まだまだ、先が長い事で御座います。
長生き、長生き、ながいき、 元気で! です。
1段階目、直訳の「ホツマ(秀真伝、しゅうしんでん)」を読んでいっぱしになった気でいる。
2段階目、ホツマ文字、本当は、ヲシテ文字というべきの読み書きが出来てくる。
3段階目、『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」を原字・原文で読んでみると、
「直訳の秀真伝(しゅうしんでん)」は、なんかおかしいと気が付いてくる。
4段階目、さて? 『古事記』『日本書紀』と比較をし始めると、あれ?『古事記』って、ホントにおかしげだったのね! と気が付いてくる。
5段階目、『ホツマ辞典』を見てみようか? と、思い始める。「直訳の秀真伝(しゅうしんでん)」はどうおかしいのか? ちょっと知りたくなる。
それで、今朝に、また発送という事です。
とにかくも、時間が掛かります。ウチの女房は、助走が、30年ぐらいでした。
よくこんなのしてたのね。の女房の感想でした。すぐそばで居ていたのに。
『ホツマ辞典』に付属の「系図」を、
このごろ、女房はご愛用です。
京都の葵祭が近付いて来ました。
拝見にという事も、あるようです。
でも、御蔭(みかげ)祭りが先行して挙行されることは、
余り知られていませんが、
実は、神武天皇のご誕生の秘話に属することだったんです。
ひどいことに、
ふつうの『古事記』『日本書紀』で見聞きしていた事柄とは、
ガラッと違って、涙ながらの話です。
かいつまんで説明しましたら、
12代のウカヤフキアハセスさんのとき、
お世継ぎのご誕生がなかなかなかったのでした。
そこで、
ヤセヒメさんが、お若くして入内なさって、
ヰツセのミコが誕生されました。
ところが、病を得てヤセヒメさまはお亡くなりになってしまわれました。
緊急にはヰツセのミコのお育てをどうするか?
そこで、
良いお方が居ると、タマヨリヒメが推薦されてきたのでした。
タマヨリヒメは、カモのタケズミさんのご子孫だったのでした。
そして、タマヨリヒメの籠っておられたのが、ミカケのところ、
今に言う、御蔭神社(みかげ じんじゃ)ですね。
そのご縁から、タマヨリヒメが入内なさって、
タケヒトさま(のちの神武天皇)をお産みになられるわけでした。
さて、
『定本ホツマツタヱ』の27アヤのところ、
を見てみましょう。
いかにもごっそりちょん切っていますね。
その切られて、改竄されてしまった結果、
「ワニ」の産んだような変な話にされてしまっています。「八尋の鰐」ですよ、ひどいおとしめの誤訳も、コト至れりです。
ひどい話です。
こんなにひどい貶めをされてディスられていても、
「直訳偽書の秀真伝(しゅうしんでん)」で汚染されちゃってる人も、
やっぱり、まだ、幸せなお花畑の状態でしょうね。
この話をだけするだけで、かるく、一日は掛かります。
この『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」の真実性を証明する傍証のひとつが、
御蔭神社の御蔭祭りにあったわけです。
すごい事ですね。
とりあえず、『定本ホツマツタヱ』の27アヤの該当箇所をUPしましたので。
もっと詳しく見たい方は、ぜひ『定本ホツマツタヱ』をお買いもとめ願います。
先日、在庫無くなりのために、
増し刷りをしまして、わが茅屋には在庫がいっぱいになっております。
どうか一冊、お手元に!
『古事記』『日本書紀』との詳細な対比が、
一目で見れます。
・
ー 追記 ー
そうそう、
もうひとつ前の物語だった。トヨタマヒメさんの事を書き忘れていました。
『ホツマ ツタヱ』の26アヤに詳しく出ている出来事です。
『定本ホツマツタヱ』を見てみましょう。
ここの個所も、思い切ってちょん切られてしまっていますね。
よく見ましたら、ほんと、とんでもないことをされちゃっていました。
わたくしは、歴史を直さねばと思います。
さて、
ザッとかいつまんで説明しますと、
事は、10代アマキミのニニキネさまの時代に遡ります。
水田稲作を、高地の灌漑水田にと革新的な新技術で、
世の中に豊かさを広げられていったのが、10代アマキミのニニキネさまでした。
その、全国巡幸の際、琵琶湖湖畔のシラヒゲさんは、去ってゆく去って行くって言われるんです。
シラヒゲさんは、初代クニトコタチさんの直系のご子孫だと、わたくしは推察しています。
父祖・先祖のお祭りのタケのイワクラ(岳山)の祭祀ももう放擲してまでして去ってゆくと言うんです。
そのことから、ニニキネさんは、
3人の皇子のうち、
2番目サクラギさんと、3番目ウツギネさん(のちの11代のホホテミさん)に、
アワウミ(琵琶湖)の西岸を中心とした、シラヒゲさんの去った後を任せたのでした。
そこで、いざこざが起きて、海幸山幸の物語になる出来事が、起きる訳です。
やがて、2番目サクラギさんは、策略を巡らしていた事がばれて自滅なさってしまいます。
九州のハテカミさんのもとに、援助を求めて行っていた3番目ウツギネさんに、
皇位の継承を定めるミコトノリが出されます、これで11代のホホテミさんのご即位になる訳です。
さて、
ハテカミさんは、アマテルカミの左に侍る程の重臣のカナサキさんのご子孫でした。
九州の統治について、アマテルカミのご名代を任されたお方でした。
さて、ウツギネさんは、
皇位の継承を定めるミコトノリを受けて、
急ぎの舟で、ミヤコのミツホのミヤ(野洲市の服部遺跡だったと思われます)に、
戻られることになります。
ウツギネさんのおキサキだった、トヨタマヒメは、
妊娠中の身重だったので、ゆっくりの舟にてツルガ(敦賀)に行く事になさいました。
ところが、
あにはからんや! より安全なはずのゆっくり舟は、難破してしまったのです。
何とか助かった、トヨタマヒメは、途中から、早や舟でツルガに向かったので、
思いの外に早期の到着になりました。
産屋がまだ、屋根の葺(ふ)かれていない状態で、
ご出産という事になりました。
それで、タケ・ウカヤ・フキアハセスのミコトと言うお名前が付けられたのでした。
ウカヤとは、産屋(うぶや)の意味です。当時は、別棟の産屋を建てて出産をするならわしでした。
さて、トヨタマヒメは、
産屋で涼んでいたら、
ウツギネさんが覗いたようだったのでした。
それを、トヨタマヒメははずかしいと、
九州の実家に戻ろうと、なさるのです。
キフネのところ、今の貴船神社のところまで行かれたところで、
ウツギネさんの急遽使わした使者の説得によって、とどまってもらう事になりました。
そばに付いていっていた弟のタケツミさんに面倒見てね、という、ニニキネさんのおこころがありました。
それで、
カモのところ、今の上賀茂神社を中心とした、
かつて、ニニキネさんが新田開発をなさった土地を任せられる、
運びになりました。京都の盆地の北の方ですね。
このことから、下鴨神社にはカモタケツミさんが祭られているわけです。
さて、ところがです、
トヨタマヒメは、長い日々、
ミヤコにのぼって来てくれません。
どうしても、恥ずかしいと、言うわけです。
そこで、
ニニキネさんは、
説得のために、トヨタマヒメのもとに赴かれます。
その際に、お示しになられたのが、
アオイの葉と、カツラの葉です。
アオイは、ヲ(温かさの季節)の象徴、男性の方のことも言います。
カツラは、メ(寒い季節、実になる季節)の象徴、女性の方のことも言います。
その、ニニキネさまの教導の御幸(みゆき)が、
葵祭りだったわけでした。
あー、なんて深い話だったんでしょうか!
詳しくは、
書いておきました。ご覧ください。
書いておきました。きっと、感動を覚えて頂けることだと思います。
わが国の、漢字以前の伝統って、本当は素晴らしかったんですよ!
トヨタマヒメの物語があって、
そのあとに、
タマヨリヒメの物語が、
積み重なっているのでした。
「八尋の大鰐」なんて、『ホツマツタヱ』など「ヲシテ文献」のどこにもない、
吐き気をもよおすほどのひどい話をでっち上げるのが、『古事記』『日本書紀』のやり口だったんですよ! みなさん!
やられっぱなしの、1300年間でした。本当の歴史を取り戻しませんか!
もう、そろそろ、本気で!!
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