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2018年3月25日 (日)

富永仲基さんと藤原家隆卿を偲んで。サクラの口縄坂にて。

『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」の、
受容は何千年ぶりの大パニックでもありますから、
何はともあれむつかしいです。
驚天動地の話です。
Kutinawasaka2
昨日は、サクラに誘われて口縄坂を降りました。
口縄(くちなわ)とは、蛇のことです。
ぐねぐね、怖いように、のたうつ坂と言う意味です。
織田作之助が作品にも書いているといっても、
Kutinawa1
ご当地ものでしょうか? 
大阪では織田作之助は有名ですけれど。
東京の方面などのお方からは、
大阪も、
京都も、
神戸も、
堺も、
奈良も、
区別も付き難しと言うところが、
正直な所でしょうね。
でも、雰囲気はずいぶんと違うんですよね。
畿内は、至ってややこしいところのあるもので御座います。
Kutinawasaka1
それはともあれ、
これからは、
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」のほうが、
あと百年で、世間の認知度は織田作之助よりも上にはなりましょうか?
時代は移り変わります。
ソメイヨシノも咲いておりました。
さて、
訪ねましたのは、西照寺さんです。
Nakamoto1
わたくしの尊敬してやまない富永仲基さんの招魂碑が祭られています。
Nakamoto2
仲基さんの厳父や弟などのお墓と一緒です。
本堂のま裏手に祭られています。
富永仲基さんは、
日本思想史上での大偉人だと、
わたくしは理解しております。
「加上(かじょう)」という捉え方を、
確立してくれましたんですね。
「善」において、と、この理解がまた一つ重要なんですね。
そうしてこそに、
「トのヲシヱ」に軌を一にする大発見だと思います。
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」を見なくて、
ここ、
最重要の要点に辿り着いたことは、
まさに括目すべきことであると、
もう、
40年来に、深く尊敬をしてきていたのが、
思想家としてのわが師、富永仲基さんです。
Nakamoto3
サクラの咲きはじめが綺麗なお昼でした。
春分を少し過ぎたばかりで、
日はそれほど高くもありませんでした。
キサラキの初旬の、日の温かみです。
じっくりとお参りさせてもらえました。
ご住職さんにご挨拶しましたら、感謝されました。
西照寺さんは、光明山と命名されています。
Nakamoto4
その、すぐ上の、上町台地の西の断崖上には、
藤原家隆さんのお墓があります。
Ietakasann
              <サクラが5分咲き位でした>
 
藤原定家と共に、俊成さんの歌のお弟子にあたります。
後鳥羽天皇さんは、藤原家隆さんに歌の手ほどきを受けられたほどの、
ことです。家隆さんとは、相当のお歌の達人です。
Ietaka1  
ですけれど、
お墓はすぐ近くなんですけれど、
わが師にして、
わたくしの大尊敬してやまない富永仲基さんは、
お歌は、それほどではなかったでした。
32歳で、早逝だったこともあって、
ロジックに長けたお方だったようです。
ひとそれぞれでございます。
それにしましても、偉大なる仲基さんのこと、
早逝の事、返す返すもにも残念なことで御座います。
 
藤原家隆さんの、いろりのあとの、
すぐ下に、
500年ほどののち、
わが師の富永仲基は、
当時は悲しくも勘当されつつも、
やがては、この地に招魂碑をお祭りされることにもなる、
と、
そう言う運びにもなりました訳で御座います。
すごい天才と言うものは、
その時代には、なかなか理解にも、受け入れにも、
むつかしいもので御座いましょうね。
利害関係が絡むとややこしいですからね。
 
              ・
 
さて、ひるがえって考えてまいりますに、
わたくしたちは、 
「ヲシテ国学」を標榜して樹立してまいりましょうと、
そうこころざしてきておりますので、
和歌の「やまとうた」のことも、
その流れも重要なひとつの押さえどころです。
さて、
藤原家隆さん。
晩年になって、出家をなさいまして、
それで、上町台地のその断崖の西の端にいろりを結ばれたのでした。
ここから眺める夕日が、
とてもお気に入りだったとか、
来てみましたら、わたくしにも解かるようにも思えてまいりました。
家並みが、ビルディングが、賑やかに建ってますけれど、
Ietaka3
平安時代の家隆さんの夕陽庵(せきようあん)の当時は、
海が間近にひたひたとあったようです。
おそらくは、松も生えていて、
ショウロも採れたことであったのでは?
過日、思えばたった千年のむかしのことが、
思い起こされます。幻影を見るような、桜の咲き初めでした。
千年で、こんなにも変わるんですよね。
Ietaka2
   ちぎりあれば 難波の里に
   やどり来て 波の入り日を
   おがみつるかも
の藤原家隆さんの歌碑が、サクラの花にいろどられていました。
地名の「夕陽丘(ゆうひがおか)」とは、家隆さんの夕陽庵からきているとのことです。
その、契りとは何か?
四天王寺は、
聖徳太子に滅ぼされたモノノベの大きな拠点のひとつでした。
二朝廷並立時代での、ホノアカリさまの側のご子孫の方でした。
政治における路線の違いは、ややもしますと、
そのような、大きな軋轢を生じるものでもあります。
ですから、
新々に「ヲシテ国学」を樹立しようと、
そういう事にもなりますので、
不純なところものもは、クリアーにしてゆく必要が御座いますのですね。
こう言う、大切なことを、おろそかに思うのはおかしいお話で御座います。
直訳モノに堕(だ)っしてしまうのは良く無いという事で御座います。
わたくしの、つねに自戒しております事柄で御座います。
千年先にも、二千年先にも、
名に恥じない事を、常に自戒をしております。
 
 
そして、本当の真実の「契り」とは、
縄文文明のわが国の光輝に、
焦点を当てるという事なのだと思うのです。
火炎土器や、
縄文ビーナス、
三内丸山遺跡や、
鳥浜貝塚、
東名遺跡も発掘されてまいりました。
わが縄文文明は、
確固たる大文明であること、
さらに、
伝統が連綿と受け継がれてきている奇跡を、
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」が、奇しくも証明することになったわけです。
この、
わが国の本当の歴史の真実を、
私は知り得たので御座います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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コメント

富永仲基さんが「出定後語」という書の中で、「加上」という考え方の原則を発見して、発表しておられるということは少しも知りませんでした。先生のブログでの示唆で、初めて知りまして早速調べて、内藤湖南さんの『大阪の町人学者 富永仲基』という書を読ませていただきました。富永仲基さんという方は、えらい方なんですね。
既に既成概念ができてしまっている宗教の概念なり、考え方を、冷静客観的・論理的に捉え直すということは、勇気が要りますし、天才的な能力が要るものなんですね。
古事記、日本書紀から、ヲシテ文献の「ヲシテ国学」への移行の今、この富永仲基さんの考え方が、大切となってきているのですね。いつもながら、学びになる大切な示唆をしていただきまして、感謝しています。
織田作之助の「夫婦善哉」も、名前は聞いたことがありましたが、本は読んだことがなかったので、さっそく手に入れて、読んでみることにしました。昔流行ったみたいですが、きっと今読んでも面白いだろうと、楽しみです。

 
 
富永仲基の書もすごく良いのです。
1枚だけしか見たことないので、
それも、書籍に出ていたものですが、
コピーを取って、若い頃に、
肌身離さず持ち歩いていました。
でも、
お歌だけは、仲基さん苦手だったようです。
やはり天才のなせるところでしょうね。
何かとり得があったら、
優れたところが光りますものね。

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