どうして?
そんなにむつかしいのか? 『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」の
説明ですね。
推して知るべしで御座いましょう。要は、直訳ではダメなんですね。
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」の説明をするのがです。
本当にむつかしいです。
さらに、どうしたら解かり易くなるのかと、悩みました。
1年ほどとなりました。
悩みから、ひと塊りを生じました。
小説にと、まとめました。
季節ですね、
ウグイスも鳴き始めました。
今朝は、やっと、女房にも鳴いているよと、知らせました。
初鳴きは、一週間ほど前に聴きましたのが、女房はまだだと、
唇を噛んでおりました。
今朝は、やっと笑顔になりました。
「東雲物語」(しののめ ものがたり)
ちょっといいかも?
とりあえず、みなさまに、お読み頂いてからと存じます。
文字の綺麗なPDFのバージョンも用意しました。
どうしても、ルビが、ブログのサイトでは、ヘンになっちゃいます。
わたくしの技術的な能力の限界で御座います。
より、読み良いのはPDFのバージョンで、ご覧願います。
さて、
評判が良ければ、2冊目も… 。
ということで、「東雲物語Ⅰ」と「Ⅰ」をくっ付けました。
さて、泥鰌は二匹になりましょうや?
<白の桃も咲いてきました。
ネコヤナギも花が咲きはじめて来ました>
・
以下、「東雲物語Ⅰ」で御座います。
よろしくお願い申し上げます。
縦書きのA5版ですべてUPします。この形式が読み易いと思いました。
PDFのバージョン、ダウンロードしてお読みください。
『東雲物語』第一巻の全巻です。(A5版)
3月9日版での微修正として、目次を追加などのさらなる向上のアクションをおこしました。(最新版です、3月9日版)
一巻目において、17章の、各目次があった方がスキッとみやすいと思いまして御座います。
・
さてさて、
これからの、AIの技術の進展してゆく時代に、
わたくしたちの、本来的な根拠の価値を築けるのは、
読解力であると、そう言うように考えての、
答えを見いだすようにもなって参りました。
これからの、私たちの、本当の能力を鍛えて、
刃金の、あるいは、黄金のうつくしさ、
実用性を作り出してくれるものは、
『古事記』『日本書紀』の原書の、
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」でしか、
他にはあるまい。
そう、
確信を持っております。
さて、この思いをどう伝えたら、
現代のお方に伝わるのか?
このこころみも、
試行で御座います。
どうか、良いアイデアをお寄せ願いたく存じ上げます。
今日(3月10日)は、
女房の、釉薬掛けです。
大物の鉢の釉薬掛けは、私も手伝います。
花は、さわやかな良い匂いです。
『フトマニ』のス・ヤマの項目です。
めでたい、サチクサの意味です。
アキには、実を結びます。
アケビと違って、パカッと実が開きませんので、
虫に食われることなく、とってもおいしいです>
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」のことは、
どうか、お読み頂きたく願います。
・ ・
追記、(平成30年(2018)、3月23日)
ここ2~3日前から、
イカルが、ウチの庭の近くに、来て朝方に鳴いています。
ホッとします声です。
・ ・
夕方になりまして、
窯詰めも、ようよう、完了いたしました。(3月10日夕方)
右の真ん中から伸びている白い棒は、温度計です。
その先の、赤い尖がりも、ゼーゲルの蓄積熱の目安にする三角の錐、
つまり、いわば温度計です。
何度になってから、何分経過して、
それで、はじめて、胎土も釉薬も融け始めます。
融け過ぎたら、べちゃっとなってしまいます。
ほどよく、加熱は止めなくてはなりません。
べちゃっとならない、その程合いを見るためのものです。
これから、熱との微妙なはざま、
そして、還元と酸化の及ぼしのことに、
窯のことが一憂一喜になります。
一喜一憂よりも、
どうしても、一憂一喜ですね。
もっともっと、憂いの方が多いでしょうね。
造ってゆくものには、
完全なものとてなくて、
一喜一憂よりも、
一憂一喜だろうと、私はそう思って居ります。
でも、
やっぱり、やってゆきたいので御座いますね。
冒険でも。
焼き上がりました。(3月14日)
ゼーゲルの蓄積熱型の温度計も、十分に倒れました。
釉薬の青唐津は熔けて、胎土の白い土の文様が出てまいりました。
ムベ(ムヘ)の文様です。
・
さて、わたくしの主食となった、納豆造りです。
<右の大の鍋には、青豆大豆を5%程度入れました。
いつも、試行錯誤です。これも、冒険で御座います。
クロマメは、丹波の上等の黒豆で、
いつも、ご恵送下さいます最上等品です。
マメさを増すマメでございます>
∞ ∞ ∞
東雲物語 Ⅰ
池田 満
日本
ヲシテ 研究所
目次
1、東雲まりなは思い悩んでいた。人として、幸せとは何か? p4
2、魏志倭人伝とは何なのか? p64
3、呪術の世界、銅鐸の世界 p117
4、漢字以前の時代はどのようであったのか? p135
5、呪術とスピリチュアル、そして、縄文哲学 p203
6、縄文哲学とはなにか p281
7、書き取り朗読の世界 p313
8、箱根の噴火 p350
9、きつねの行列 p418
10、銅鐸のまこと p438
11、根を肥やす p528
12、芽をふいてゆく、春の日の光 p578
13、しもばしら寒風の音 p662
14、春の芽吹きのウメの花 p702
15、咲きはじめ大きく開く春の盛り p831
16、黄金のカラス p895
17、咲きはじめ開きゆく春の盛り p936
第1章、東雲まりなは思い悩んでいた。人として、幸せとは何か?
しののめに あけるくもいは
あきらけく とびくる声は
ふた
暁烏
この頃は、西出哲司に会うのも、喫茶店が多くなっていた。仕事帰りに、やっと待ち合せたら、もう30分も待たされてうんざりしていた。もう一週間ぶりなのに。
東雲
まりなの下宿先は、伯父さんの家だし、哲司も実家住まいだから、二人の間合いに小さな挟まりものができても距離が開いてくる。
もうすぐ行くから、とメールがあったのに、と、東雲まりなはケイタイにまた目を
遣
った。
「待った?」
と、喫茶店のドアを開いて、西出哲司は入ってくるなり、疲れたように腰を下ろした。東雲まりなのコーヒーカップには、底が白く見えている。鈍感な人!
出会った初めに感じた雰囲気とはだいぶ違う。表情で訴えてはいても、東雲まりなの思いは、哲司に伝わらない。
今日は、就職して半年になって、ちょっと、新会社にも慣れてきたのでそれやこれやを話したいと思っていたのだが、出足からおかしかった。30分も待たせた上に平然としている事に気持ちが乗らなかった。今日は、当たり障りのない近況の報告などだけで帰ろうと、まりなは思った。
「やっと半年になったの。仕事の事は、少しわかって来たけど、他人との関係が解らなくて…」
社員食堂で有名な秤屋さんに就職できたのは偶然だった。たまたま友人に誘われて社員食堂に行ったときに、学生アルバイトの募集があったので応募したのが縁に繋がった。東雲まりなは、地元の主要な大学などには受からず、東京の滑り止めの方のに通った。多分、ふつうに面接を受けていたら入社は難しかっただろう。
西出哲司は、疲れていた。一杯飲んで帰りたいところだけれど、まりなは、哲司の酒癖が良くないのを知っている。
「半年ぐらいだったら、やっと顔と名前が一致してくるぐらいだよ。それに、仕事を覚えるのが忙しいだろう」
たわいもない話に、哲司もまりなもどうも気が乗らないようだ。
「あ、そうそう、古事記の朗読会があるんだって。大きな声を出したらもやもやが吹っ飛ぶかも?」
哲司も、話を振っておいて早く帰りたいと思った。
「そう? 古事記なんて読んだこと無かったのよ。あす?
そうね、行ってみようかな?」
大きな声を出して何かぶっつけてみたい気持ちに駆られた。古事記の朗読会の会場を哲司に聞いて、まりなは立ち上がった。
「哲司さんは行くの?」
「明日は仕事が入っているのでムリなんだ。どんな感じだったか、あとで教えてほしい」
下宿先に戻った東雲まりなは、なんとなくけだるかった。哲司と街で会ってもときめきを覚えなかった。下宿先とはいえ、伯父夫婦の一軒家だから気楽なものだ。
崇
と
真
美
の伯父夫婦は子供のいない共働き世帯だ。
伯母の真美は、凝った料理を作るのが趣味だ。編集や校正の仕事をフリーでやっているので、仕事の立て込んだ時は店屋物をとる。暇になったら、マニアックな料理を楽しむ。ところが折角手の込んだ料理を作っても、崇は営業をやっているので帰宅時間もわからずで、つまらなく思っていた。そこに、まりなたちが来て、華やかになった。でも、みんな生活の時間がバラバラで、凝った料理を褒めてくれることも少ない。
そんななか、まりなが一番料理の質のよさをわかってくれた。
まりなは、伯母の
東雲
真美
に古事記の朗読会の事を話題に出してみた。
「明日、中野のサンプラザで、古事記の朗読会があるんだって。行ってみようかな?」
東雲真美はちょっと微笑んだ。
「行ってみたら? 気分転換にいいじゃない。そう言えば、女優の浅野温子のステージもとっても迫力があるって、聞いたわよ。ワンステージ何百万円もかかるんだって」
伯母の真美は、東雲まりなのこのごろの気持ちの落ち込みに気が付いていた。女同士は、感じるところがある。
「そんな上等のものじゃないみたいだけど、みんなで大声でやるそうなの。会場も近いし」
翌朝は、目覚めが遅かった。昨夜は遅くまでネット検索をしていたからだ。古事記の事を検索してみたら、初めて知った事が多くて不思議の感覚をおぼえた。こんなことも知らなかったと、そんな思いの連続だった。
隅田川の土手から蓮根の駅に向かった。蓮根はよくレンコンと読まれたりするが、「はすね」が本名だ。水道橋まで地下鉄で22分とアクセスも良いが、なにより下町情緒がなつかしい。伯父夫婦は、子供がいない事もあったが、はじめから気楽に東雲まりなの姉弟を預かってくれている。築50年の一戸建てはそれなりに風雪を感じる。弟の健治はアルバイトの疲れか、まだ寝ていた。コンビニのバイトで昨日は夜のシフトだったらしい。
中野サンプラザの古事記の朗読会には、若い人も半分ぐらい来ていた。15人ほどだった。代表の裏影絵津子が、まりなの方にやって来た。集まった中でまりなが一番若く初めて見る顔だったからだ。
「ようこそ、来ていただいてうれしいです」
「はじめての古事記なので、良く解かりませんけれど、よろしくお願いします」
「お気楽にどうぞ、古事記を朗読すると、何だかエネルギーを感じるんです」
裏影絵津子が初めに主導して朗読。そのあと、みんなで、ふたたび朗読してゆくスタイルだった。これなら、初めてでもとまどいもない。
一時間半の朗読会はあっと言う間に終わった。大きな声を出していたら、気分も晴れ晴れとしてきた。小腹もすいてきた。
裏影絵津子が、近付いてきた。
「初めてなのに、大きなきれいな声で良かったですよ。やっぱりお若いと、声の張りが違いますね。
このあと、いつも、お茶でもといかが? と、時間の大丈夫な方たちと、下の喫茶店に行っていますが、ご一緒にどうですか?」
もやもやを吹き飛ばそうと、大声だったのが、
褒
めて貰ってまりなはうれしかった。
「ケーキもありますかしら」
「もちろん。おいしいですよ、焼き立てで。それじゃ、1階のカフェで」
ぞろぞろと、2~3人が連れ立って、結局9人カフェに来た。
自己紹介して? と、年配のおばさんが言う。
「わたしは、東雲まりなです」
「え? しののめ? どんな字を書くの?」
「東の雲って書きます」
「おー、東の雲でしののめ! 綺麗なお名前ですね。詩情も豊かで素敵! 関西の方ですか? 」
口を
挟
んできたのは、50過ぎのにこやかな紳士だった。
阿留日
康男という、ちょっと変わった名前だ。名刺をもらったので、読めた。大内乳業株式会社 代表取締役。
あ、社長さんなんだ。
「わかりますか? 東京に来て4年はすぎたんですけれど」
「そうですね、アクセントとか…。やっぱり。京都でしょうか? 東の雲の東雲さんのご先祖はお公家さんだったり」
と、覗き込むような、あるいは仰ぎ見るような視線だ。
「そんな大それた家でもありません。滋賀県の田舎の醤油屋の娘です」
「あ、お醤油大好き!」
奇声を発したのは、初めに口火を切った年配のおばさんだ。なんでも、自然食に凝っていて、短期醸造のこの頃の醤油は良くない美味しくないと、ひと講釈が5分は続いただろうか。思い出したように、
「滋賀県のお醤油って、知らないんだけれど…」
まりなは、田舎の祖父や父母の醤油にかける情熱を思い出していた。
「もうちょうど今年で100年になります。うちの蔵は、大正6年創業の醤油屋です。当時は、近隣で7軒も有ったのですが、もう、2年半も掛けて醸造するスタイルは、うちの蔵だけ、一軒だけになりました。時代遅れです。古いお得意さんのほかに、道の駅なんかが出来て、この頃は、ちょっと一息だ、と父は言っていますが。老朽化した醤油蔵の改修費をどうするか? とか、考え出したら、いやになるとも言っていました」
「すごいですよ! 一度、頂きたいわ! 混ぜ物無しの長期醸造のお醤油なんて! すごい!」
大正6年、当時の最先端の技術で、当時は、俊勢を誇っていた野洲醤油も、敗戦後に勃興した3か月の短期醸造技術の前にはコスト的に太刀打ちが叶わなかった。でも、5倍に水で薄めて味見をして較べたら、やっぱり、野洲醤油は美味しいとまりなは思っていた。
「わたしも、味見して比べたら、ウチのお醤油は美味しいと思っています」
「ぜひ、今度欲しいわ!」
「立派なお醤油屋さんの娘さんが、今どうして? 東京に?」
「そんな立派な蔵じゃないです。
伯父がこっちなので、寄宿させてもらっています」
「もう働いておられるんでしょう」
阿留日康男が覗き込む。
「半年前からです。板橋で就職しました」
「まあ、新人さん。どちら?」
「社員食堂で有名になったところです」
「えー、すごいね。入社倍率すごいんだって?」
「たまたま、学生アルバイトで縁が出来たことで受かった様なものです」
「でも、人柄がそこで見て貰っていたんだよ」
まりなは、何とか小学校教諭の資格は取れたが、就職には結びつかなかった。都会も田舎ほどでもなくても少子高齢化が進んでいる。秤の会社にすべり込めたのも、偶然の産物だった。
阿留日康男がうーんと頷いたのが、伏し目がちにしていたまりなの目にも映った。
「来週に、ホツマツタエの会があるんだけれど、来ない?」
初めて聞く話に、まりなは戸惑った。ほつまつたえってなに? 真面目そうでやさしそうな阿留日康男の誘いに、少し心が動いた。
「行けたら行きます」
京都の友人がよく言うフレーズが咄嗟に出てきた。
ほつまつたえ? ってなんのことだろう。
とにかく、会合の場所を聞いておくことにした。
おばさんたちは、口さがない。若い女性に「彼氏は? 」と、興味が尽きない。会社でも根掘り葉掘りの攻撃にうんざりしているが、まりなは西出哲司と距離感が出て来ているので、うまくはぐらかすしか手はない。当たり障りのない対応は、半年の社会人生活の成果の賜物でもあった。
「また来月ね!」
おばさんたちがまりなを大歓迎してくれている雰囲気は心地よかった。
翌日は、日曜日。哲司と昼前に電話がつながった。
「昨日はどうだった? 古事記の朗読会」
「大声出して朗読したら、すっとした。行って良かった」
「俺はこれから昨日のインタビューのまとめの原稿作りだ。疲れる仕事だよ。大体まとめたんだけど、チーフに、今度こそいっぱつOK取りたいんだよ」
「頑張ってね。 あ、そうそう、昨日聞いたんだけれど、ほつまつたえって何なの? 勉強会に誘われたんだけど」
「このごろ、
流
行
ってきているの知らないの? ホツマって、大体のところ偽書だと思われているよ」
「でもね、古事記の原書だと阿留日康男さんが昨日言っていたけれど」
「そういう、ちゃんと調べないのが、まりなの欠点だね。ネットで見てみたら?」
「誠実そうな人だったのよ、阿留日康男さんて」
「そんなにいうなら、もうちょっと調べとくよ。 でも、明日までに、このインタビューの原稿纏めないと。 またね」
ブラック企業だと言う世間の声も多く聞くが、新聞記者のような仕事は、原稿を何回書き直してもダメを食らう事も多い。良く考えたらブラックもいいとこだ。でも、電車の中でちょこちょこっと書いただけで終わらせてしまう能力のある人種もいることも事実だ。西出哲司は、どうもその
括
りからは外れているようだった。年収を聞いたら安心だったのだが、決めつけて来る話の仕方がまりなにはどうも気に掛かりはじめていた。電話を切ってから、ふと、庭のさるすべりの花に目をやった。白いさるすべりは花盛りを少々過ぎようとしていた。夏から、もう、暦の上では秋に入っていた。朝には涼風も感じる。でも、まだまだ、暑い。東京はホントに暑いとまりなは思う。田舎も暑いが、東京はもっと暑い。残暑お見舞いを書く頃合いだが、今年も葉書をほとんど書かなかった。フェイスブックやインスタなどネットでほとんど終わる。
昨日の事もそうだった、ネットとの付き合い方も過去に前例のないレベルになってきている。古事記の事を調べていたので、すっかり頭も目いっぱいだったのだ。だって、気分転換に来たのが朗読会だったのに。まりなは、西出哲司の理知的な機械的な拒否の反応に違和感を覚えた。うれしいな、たのしいなといった、心の底からくる気持ちを西出哲司とこれから先にも共感して共有できるのだろうか?
西出哲司との出会いは、日光の
男体山
の登山の時だった、まりなは運動が苦手だったが大学の女友達に誘われて、手軽そうに思えた。友人の卒業記念につきあった登山参加だった。その時は、複数大学とのコラボだった。たまたま有名大学の人達とセットになった。よたよたしていたまりなをサポートしてくれたのが西出哲司だった。哲司は卒業の年だった。電話番号を交換して、それから付き合いが始まった。2年先輩なので、社会人としてもいろいろ相談にものってもらえる。これが恋かな、とまりなは思っていた。でも、哲司とはどれだけ接近してもなんだか打ち解けないのが気がかりのまりなだった。
日光の東照宮はとってもきらびやかだった。徳川家光の
大
猷
院
も立派だった。二荒山神社が、寂れた雰囲気で気がかりにまりなには思えた。哲司は、そんな感じを覚えていないようだった。哲司は、東照宮にとても感動していた。
きらびやかさと、その生活。でも、何だか違和感を覚えるまりなだった。
良く考えても、一流の新聞社で、有名大学の出なのだから、言ってみれば世間的にはもう安心のカードなのだ。それなのに、まりなは、就職してから何か変な感じをおぼえ始めていた。小さな違和感。それは、月を追うごとに、日を追うごとに哲司に対してのわだかまりがふくらんで来る様だった。就職する前は、何もそんな気がかりも感じていなかったのが、今にして思うと不思議だった。
実際に働く大人の色々な人と接するうちに、大人度がまりなに
培
われてきたのだろうか。表面では怖い人もいるが、内実は優しかったりする。また、ニコニコしていつも愛想の良い人が、逆に変な噂を垂れ流す人だったりする。まりなは社会に出てそんな複雑な人間関係を知った。哲司には、まだ、そう言う人の裏表のややこしい感情が解かっていないな。と、まりなは思う。
やっぱり、阿留日康男のすすめのほつまつたえの勉強会に行ってみよう。まりなは、前を向いて進んでゆく気持ちは強かった。哲司は今日も忙しいようだ。何を調べる気にもならなかった。
阿留日康男は、乳業の会社で年商は30億円にもなるという。にこやかで紳士だ。初めて会った中野サンプラザでも、まりなには信頼できそうなおじさんとして映った。彼が古事記の原書の方が大切だ。と言うのもそれはそれでわかるような気がする。今日は、東京駅から5分の喫茶店が会場だった。
でも一体全体、ホツマとはいかなる物であるのか? 西出哲司の言うところの、偽書なのか? 大体は、世間では偽書だということになっている。でも、まりなには、阿留日康男の誠実さの光を心の芯に受け止めた。西出哲司の放つ光りとはちょっと違う。
説明せよと言われても困るが、ふたつのものは、較べて見たら、違いが解かる。
お醤油でもそうだ。
2~3か月で発酵を終える短期醸造の醤油は、味の含みと奥ゆきが浅い。二年半も三年近くにものゆっくりの発酵・醸造の過程を経た醤油には深い味わいがある。5倍か10倍に水で薄めて味比べをすると、2割ぐらいの人には解かってもらえる。でも、でも、それは極めて少数派。解かってもらえない人が多い。8割がたは味見をしても目で空を追う。それで、実家の野洲醤油もなかなかパッとしない。混ぜ物無しの醤油の方は、あまり売れない。次の代にどうやるのか? 続けられるのかどうか? 存続さえ岐路に立っているのが実情だ。大正時代から続く2年半の長期熟成の醤油に、ひとりでも興味を持ってもらえたのは、まりなには嬉しかった。
まりなは、弟と二人、よく東京に出してもらったと時々おもう。それも偶然の巡り合せでもある。普通は長兄が家業を継ぐ。東雲まりなの父の
亨
は次男だった。まりなと弟の健治が寄宿している伯父の東雲
崇
は長男だ。崇は、学生運動の盛んな時代に東京に出て、真美と出会って結婚した。ゲバルト世代の夫婦の典型だ。結局、伯父の崇は故郷に戻らなかった。崇は宣伝会社に就職してそのまま板橋区に古いながらも一軒家を購入した。実家の野洲醤油は、まりな姉弟の父の亨が継いだ。崇の伯父には、ちょっと変な所がある。反体制の事を口にする割には、小市民もいい所なのだ。でも、その伯父の東雲崇、真美の夫婦の家に寄宿をさせて貰っている関係上、その事は一切口にしない。これは、まりなと健治の姉弟の暗黙のおきてだ。
美味しいお醤油も、ちゃんと売れてナンボだと、弟の健治はよく言うが、まりなはお醤油のおいしさに感動してくれる出会いに、幼い時から心を揺さぶられていた。
醤油の歴史は奈良時代にも遡れるのかどうか?
まりなは、びっくりした。大学教育で唯一の驚愕の出来事だった。室町時代頃までには、きちっと辿れる。そんな説明が、余りにも空虚に響いた。飛鳥時代や、あの石舞台古墳の時代には醤油はなかったの? 石舞台古墳に、小学生の時に連れて行ってもらった記憶がよみがえる。暑い頃だった。たぶん、夏休みだったのだろう。石舞台の大石の下に入ったら、涼しかったことを思い出す。ひしおと呼ばれていた時代、醤油とは異質だというのだ。時代の動きは、お醤油の製造の歴史でも激しいのを知った。飛鳥時代や奈良時代の
醤
の時代から、変遷が激しい。醤は、現在の味噌に近い。醤から溜まって出てくる汁が、醤の汁、つまり今のたまり醤油に近い。醤に塩水を添加して絞ると、二番醤油的な物も出来る。でも、現代の醤油にごく近い作り方での調味料、その言葉の出現は、室町時代ぐらいかららしい。もっとも、平安時代の
供
御
醤
は、現代の醤油とほとんど同じらしい。だが、律令制度の溶解のために、贅沢で美味しい供御醤も作られなくなって、製法も失われてしまった。
供
御
とは、天皇陛下に差し上げる意味だ。超高級の調味料だ。
我が家の大正6年から100年の醤油蔵の歴史も、東京に来てみて、褒めてくれる人もあるのを知った。100年前は、当時の最先端の醤油の工場だった。当時は、かなりの高級品としてのお醤油だった。現在は、比較的に単価が下がった。現実は苦しい。ふっと田舎の事を思っていた。
あの、50歳がらみのにこやかな阿留日康男が話しかけてきた。
「東雲さんは、古事記とホツマとどっちがお好きですか?」
そんな事、言われても困る。ホツマなんて、このあいだ聞いたばかり。古事記も一週間前には、その名前ばかり久しぶりに聞いただけ。ホツマツタエを略してホツマと言っている事は解かったが、何がどう? 初めて聞いたばかりで区別のことも知らないのに、聞かれても困るの状態だ。スルーするしかない。
まりなはスルーをする。阿留日康男は、この日は高揚していると言ったらよいのか、アドレナリンが100%出て来ている雰囲気だった。中野サンプラザでは誠実そうな雰囲気に感じたのに、と、変な感じを持った。まりなのスルーに、阿留日康男もだまった。
感動と言うものは、こころの底、何気ない思いの奥深くにつきささって、これが大きな感動になるのだとまりなは幼い時から思っていた。どんなに大きな音が耳に聞こえても、うるさいだけ。そうではない、感動を共調し得るものは何か?
阿留日康男が、東雲まりなの瞳に視線を集中した。あらためて話し始めた彼の声は落ち着いていた。
「東雲さん、ホツマってすごいんですよ。古事記の原書だと言われています。発見したのが松本善之助さんといって、『現代用語の基礎知識』の編集長だったひとです」
『現代用語の基礎知識』は分厚い雑誌みたいな言葉辞典で、まりなも知っていた。もう、この頃はちょっとした調べ物はネットで済んでしまう。そんなことを話していたら、ホツマツタエの勉強会の参加者が次々と現われて来て、10人ほどにもなったころ、阿留日康男が講義を始めた。テキストは、漢字仮名交じりに翻訳してあったので取っ付きやすかった。一時間も過ぎたころだった、お聞きしたいんですけれど、と、若い男性が声を発した。
「はい、どういうことでしょうか」
阿留日康男は、質問を聞いていたが、若い男性の問いの意味が解からないようだった。
「トのヲシヱと、
常
世
との関係が一緒だとするのはおかしいと、聞いたのですけれど、阿留日先生はどうお考えでしょうか?」
まりなにも何の事だか理解は出来なかった。阿留日康男の配っていたテキストに「
常
世
国
」と記されてある文章が有った。阿留日康男も説明に窮していた。今度までに調べておくと答えを先送りした。
隣に座っていたおばさんにスマホで検索の覗き見をしてもらってみた。トのヲシヱとは、縄文時代の建国の理念だと池田満が主張していた。そこから「トコヨ」の国に建国したという。でも、「トコヨクニ」を「常世国」に翻訳してどうして良くないのか、まりなには解からなかった。
また他にも、若い男性も若い女性も、あれこれと質問をしていた。そして、その都度に阿留日康男は今度までに調べてくる。と、汗をかきつつ言っていた。初めて見たまりなも、阿留日の額の汗の光り方は気が付いた。アワウタの事も質問に出たが、あんまり調べないまりなでも、アワウタの概念はおおよそ
掴
んでいた。でも、阿留日康男はアワウタの説明もおぼつかないのか? まりなは疑問に思った。今日でこの講座は終わりになります。阿留日康男の宣言でほつまつたえの講座は終わった。
キツネにつままれたまま、まりなは会場の喫茶店を出た。
「あなたも来られていたんですね」
後ろから声を掛けてきたのは、先週に古事記の朗読会で一緒になった人だった。前には一言も声も交わさなかったのでまりなは気が付かないでいた。
「すみません。気が付かないでごめんなさい」
30ぐらいだろうか、ニコニコした童顔の人だった。
「ちょっと仕事でたまたま上京したので参加しました。今日また帰る所です。またそのうち、お目に掛かれましたらうれしいです。では」
あっさりと、その人は東京駅の方へ歩き出した。のちに、この男性は
仲延
誠也
だと知ることになる。蓮根の都営三田線は東京駅とは逆の方に駅があった。
伯父夫婦の家に帰り着いたまりなは、あ、そうだと思って哲司に電話した。
「ほつまつたえって、神代文字で書かれているそうだけど、今日は翻訳文で読み易かったの」
「そう、インタビュウの原稿も出来たのでもう大丈夫。
そうだ、ホツマツタエも調べてみたけど。偽書も偽書みたいだよ。そんな事に首を突っ込まない方がいいと思うよ」
まりなは、東京駅の方に歩いて行った人の、またそのうちと言う言葉が気になった。とは言え、やっぱり阿留日康男の会があっても二度と行きたいとは思わなかった。
西出哲司は、悩んでいた。新聞業界の先行きがあやしいこと。なにしろ、一流新聞でも東大からの就職者がゼロになったのも気が気でない。多少の賃金カットは仕方ないとしても、時代の潮流かと、悩んでいた。恋人のつもりでいたまりなも、思うような事も無い。もっとこっちの言う事を従順にきいてくれると、初めはそう思っていた。あんな大学なのに。最初に出会った時も、よわよわして、手を差し伸べたら本当に喜んでくれた。そこから恋心が芽生えたわけだ。でも、うだうだ言う事ばかり多くて、解決策を考え出しても聞くともない。阿留日康男の会社が年商30億円だと聞かされても、それがなんだ、と、哲司は思う。
東雲まりなは、郷里の両親や祖父の事を思っていた。大正の初期からもう100年続いてきた醤油蔵は、近くに行っただけで良いにおいに包まれる。弟の健治が帰るのか? そこが考えのキーポイントにもなる。健治はもうすぐバイトだと、カップラーメンにお湯を入れていた。また、晩のシフトらしい。いつ学校に行くんだろう。
「きょうは、ほつまつたえの会に行って来たの。ケンちゃん、ほつまつたえって知ってる?」
「
鮒
ずしのおじさんが言っていたよ。
安曇川
が発祥の土地だって」
案外なことに、健治は知っていた。そう言えば、何となくまりなも聞いた覚えもあったのかもしれなかった。気楽なおじさんのお話しだから、いつも適当に右から左にと聞きながしていたのだろう。
琵琶湖の西岸の北の方に安曇川平野が広がっている。母の里美の実家が
鮒
ずし屋だった。兄の早瀬聡志が鮒ずしの老舗を継いだ。江戸時代からの味を守る店だ。まりなと健治の姉弟は、海水浴ならぬ湖水浴に夏にはよく遊びに行ったものだ。安曇川平野の南端の白髭の湖岸は白砂がうつくしく名勝で有名だ。海水浴というか湖水浴で当時は夏と言えばいつも賑わっていた。名物の、鮒ずしをご馳走して貰った。早瀬には子供が無かったこともあって、まりなの姉弟は可愛がってもらった。
「もう、しばらく鮒ずしにもご無沙汰ね。東京はお魚が高いから」
「ほつまつたえって、神代文字なんだって? 姉さん読めたの?」
「今日のは翻訳文がテキストだったのでわかりやすかったわ」
「松本善之助さんが発見したと聞いた事があるけど、原字で読まなくっちゃって、お弟子さんが言ってるみたいだよ」
「そうなの? きょうの阿留日康男さんは、ちっともそんなことは言っていなかったわ。それで、質問が出てきたら、今度までに調べておく。っていうの。それが、今日で最終回なんですって!」
まりなの話は尻切れトンボも良いとこで、健治も言葉が継げなかった。おそらく、哲司も言葉に苦しむだろう。もう、来週まで哲司には連絡もしないでいようとまりなは思った。健治はカップラーメンを食べたら急いで出かけて行った。下宿とはいっても、伯父夫婦もそれぞれ忙しそうで、みんな適当に暮らしている。
今日も、勉強会で出会ったおばさんにメールで連絡を取ってみた。
「池田満って知っています?」
「こわいみたいだと、うわさを聞いた事が有るけど。ホツマの文字を読めないといけないとか…。
あんな字を読むのは大変ですものね。翻訳をきちんとやってくれたらよいんですよね」
何だかわからないうちに、ひと月が過ぎた。
古事記の朗読会の日程が近付いた。まりなは、迷った。会社の新しい事業の試みにアイデアを出してゆきたいと思う日々を過ごしていたが、もうちょっとで、何かが出来そうな感触を感じていたからだ。
古事記ってなんだと、改めて考えてみた。ネットの動画で見ると浅野温子の演技はスゴイと思った。動きも表現力も際立っている。でも、よくよく考えてみると、郷里の野洲醤油の近くに下之郷遺跡があった。小学生のころ遊びによく行った。夏休みには案内係に出て、来館者に説明した事が楽しかった。2000年近くもの昔に、郷里にはすごい建物もお掘もあったのだ。今の皇居のお堀にも遜色ないと思う、3重ものお堀で2000年も前の事なのだ。だから、今の皇居のお堀にも匹敵してもいるのでは? そういうあれこれから、まりなはとても重要な建物で、皇居に近いものだったのではないか、と思っていた。来館者の人にそう説明したら、みんな納得をしてくれていた。
古事記のあの呪術世界の感じで、浅野温子の神がかった雰囲気で、はたして当時の人みんながみんな付いて来ただろうか? 古事記は8世紀だから、下之郷遺跡の時代から1000年以上も後だ。1000年間も人々は無知文盲だったのだろうか? すごい建物や3重のお掘り、無知文盲の人で作れたんだろうか?
野洲醤油だって、本当に良さを解かってくれる人は2割もいない。
埋もれていった下之郷遺跡だけで300年。その前の弥生前期の服部遺跡はまた300年。弥生時代の後期の伊勢遺跡も巨大な遺構があって300年。つまり、弥生時代だけで900年は地層に埋もれていたのだ。伊勢遺跡の近くの大岩山からは日本最大の銅鐸が発掘された。その高さは、1メートル35センチもある。台の上の乗せられたレプリカはまりなの頭より高かった。力いっぱい押してみたけれどピクリともしない。40キログラムは越しているそうだ。どうしてこんなに大きなものを山の上に埋めたのか? とても、
神
懸
かりだけで、そんな事が出来たはずがない、とまりなは思う。
哲司から電話があった。
「この間の記事。上手くいったよ。チーフから、今度もね、って言われた。
そうそう、ホツマツタエの事聞いてみたけど、やっぱり怪しいようだ。でも、
二荒山
神社の
豊
城
入
彦
命
の夢見の記事はホツマにも書いてあるんだって。古事記には書いていないけど、日本書紀には出てくるエピソードだ」
「あのとき、初めて出会った日光の二荒山神社?」
「いや、宇都宮の方だ」
まりなは混乱した。そもそも、日光は東照宮で徳川家康だ。徳川家光が祖父を祭るために豪華な
社
を建築したのだ。左甚五郎のねむり猫もいる。男体山に登る時、ふもとの東照宮のそばの二荒山神社に参拝した。なのに、宇都宮とはどういう事だ。西出哲司の先祖が宇都宮だと聞いていたので、身贔屓で言っているのか? 詰まっていたら、哲司が解説を続けた。
「おじいさんの墓参りで宇都宮に行ったとき、二荒山神社があったんだ。日光にも同じ神社があるんだ。不思議だったので調べたら、日光の方は
味
耜
高彦根
命
で、宇都宮の方が
豊城入彦
命
だって。同じ名前の神社があるのはややこしいね。
その、豊城入彦命は、夢見で弟とふたり、皇位継承が決まることになったんだ。そして、弟が皇位にふさわしいと決定されて、
垂
仁
天皇
だ。兄の豊城入彦命は、東国を治めることになり、宇都宮に来たんだって。この夢見の記事は日本書紀だけにあって古事記には書かれていなんだ。権力者っていい加減だ。それが、ほつまつたえには書かれているんだって。この夢見」
まりなは古事記は知っていたが、日本書紀とは何なのか? 見た事も無かった。夢見をして跡継ぎを決めるんだ。
「どんな夢見だったの?」
「兄さんは、今の三輪山の頂上に立って東の方を向いて剣を振り
翳
してヤーヤーと叫んだんだって。弟は今の三輪山の頂上に縄を張って雀を追いはらったんだって。
それで、雀追いの弟が世継ぎにふさわしいと、崇神天皇が決定したんだって」
「へー、力強くって勇ましい兄はだめなの? それで、弱々しい雀追いの方が跡継ぎになったの? ちょっとなんだかヘンにも思うわ」
「古事記は、弱々しい方を選ぶなんて、おかしいと判断して載せるのを拒んだのかも知れないね。
紀
前
記
後
の説ってあるんだ」
「紀前記後 って?」
「戦中・戦後に出た学説で、古事記よりも日本書紀の方が内容的に古いということだ。
紀前記後の、はじめの紀は糸偏だろ、日本書紀のことだ。あとの記の漢字は
言
偏
だろ、古事記のことだ。それで、日本書紀の紀が前で、古事記の記があとだって意味で、紀前記後」
「古事記が最初の書物だって教えてもらってきたんだけど」
「学問は進むんだよね。
紀前記後説を唱えた梅沢伊勢三さんは、古事記学会の会長もやっているんだ。学会の長にも押されたほどだから、信用できるよ」
哲司はくわしかった。
「へー、古事記より日本書紀のほうが古いの?」
「梅沢伊勢三さんは内容の比較からの証明なのだ。記録された時点の話じゃないのがミソなんだ」
「そうか、内容が日本書紀の方が古いってことね」
「そういうこと。もともとあった夢見の文章を古事記は切っちゃったと言う事だな。日本書紀のほうが中身は古いんだから」
「それで、その夢見の話は、いつの時代のころなの?」
「垂仁天皇は、戦後には居なかったと否定されているんだよ。権力者が作り出した幻影だと言われている。人皇11代だから、一応は古墳時代の初めに相当はするんだろうな」
「え? 垂仁天皇って実在じゃないってこと? それなのに、そのお兄さんの豊城入彦命が、宇都宮にどうして祭られているの?」
「全部後からくっ付けた作文さ。権力者のやりそうなことだ。」
まりなは思い出した。郷里の神社で鮨切り祭りがあって、少女のころ何回か見に行った。不思議な祭りで、もてなしのために
裃
を着て脇差を差した若者二人が
真魚
箸
という鉄製の箸と包丁を両手に持って鮒ずしを切る。それが、二人が同時に包丁さばきを合わせないと、まわりからうるさいヤジが飛んでくる。まな板に載せられた鮒ずし10尾分も切り分けるとヘトヘトになるんだそうだ。魚に手で触わらないで切るんだから、それは疲れる。長い鉄箸をあやつるには、ちょっと練習したぐらいではうまくさばけない。その
下新川
神社は祭神がたしか豊城入彦命だ。早速ネットで見たら、やっぱりそうだった。豊城入彦命は実在だったのか? 仮託の想像だったのか? そうだ、古事記の朗読会に行ってきいてみよう。と、まりなは思った。弥生時代の後期から古墳時代の初めごろだったら、あの、大岩山の1メートル35センチの大きな銅鐸の作られて山の上に埋められた頃だ。豊城入彦命と何か結びつきが有るかも知れない。
会社の方の提案すべきアイデアも、こういった別の視点からの見方が加われば、案外スキッと良いものに
纏
まるかも知れない。
下新川神社の鮨切り祭りは、湖西から湖を渡って当地に着き、「
幸津川
」と命名した主祭神の豊城入彦命の功績を称えて
霊
亀
元年(715)に建てられたお
社
に伝わる。室町時代には吉田神社から「正一位」の神階が下新川神社に与えられている。毎年5月5日に「鮨切り祭」がおこなわれる。それは琵琶湖の名物の
鮒鮓
を古式にのっとった作法で切って祭神に献上する祭りだ。これは、かつて村人が歓迎の意をこめてもてなした鮒鮓を豊城入彦命が大変に喜んだことに由来する。それで、献上するにあたって失礼があってはならないと、長い箸で押さえて、手では触らないようにして切る儀式だ。垂仁天皇のころの時代の風習だ。この伝統が当時からのものだとしたら、もてなしの気持ちも弥生時代の終わりから古墳時代の初めにかけての精神だという事になる。漢字以前の時代だ。「幸津川」もさつかわと呼んでいた時代だ。この命名の感謝からの村人のもてなしの事だった。西出哲司のいう、権力者が強権で押さえつけているような社会だったら、村人が魚を手で触らないようにしてまでのもてなしをするのだろうか? まりなにはどこか腑に落ちない感覚を感じた。
夏から初秋の朝夕の涼しさもすこしは感じられ始めた。なのに、なつかしい歌で春の歌がラジオから流れていた、伯母の東雲真美はラジオを時々かけている。それが大きな音なのだ。
イルカのうきうきする歌声だった。そんななかで、ひときわにまりなの心に残ったフレーズがあった。ゴムまりのような、ウキウキ感を失いかけているのかな? まりなは思った。
いつまでも
そう、いつまでも、
心の音が ひびいているような
そんな人で居たいから
ラバーボールのゴムまりなんだ
たしかそういう意味の、フレーズだった。
「東雲物語 Ⅰ」 17章のうち、第1章 おわり
池田
満
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