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2018年2月21日 (水)

比沼麻奈為神社のこと、アマテルカミの御陵のこと。アメノマナヰ、久次岳。タニハミチウシやヒハスヒメさまの事。 宮中三殿の事。

アマテルカミのご陵の事、
本当に大切です。
わたくしは、お参りにあがります事、
5回の上には重ねていると思います。
女房と、入籍のあとに、報告の旅行に行ったこともありました。
あのときは、寒くて、
久次岳は、雪が残っていて美しかったでした。
の5章のトビラに使いました。
Tabisuru

71ページです。
Img235
この写真の右側には、わたくし達が写っていましたが、
さすがにそこは、カットして掲載しました。
 
当時は峰山町で、
今は、
京丹後市になりました。
Kyoutanngosi
天橋立から、約30分車で入ったところです。 
Kujitake_2
久次岳(くじがたけ、くじたけ)が、アマテルカミのご陵でして、
お祭りのお社が、比沼奈為神社と言う理解で、
良いでしょう。
明治天皇の場合に照らしていいますと、
御陵が、伏見桃山御陵で、明治神宮のお祭りとなります。
 
なお、アマテルカミのお祭りは、
伊勢神宮の内宮にもお遷しされます。ウチミヤといいました。
トヨケカミのお祭りは、
伊勢神宮の外宮にもお遷しされます。当時は、トミヤといいました。
11代のイクメのキミ(垂仁天皇)の時の事でした。
『ホツマ ツタヱ』36アヤ34ページあたりが詳しいです。
アススの714年、考古学でいいますと、
古墳時代の始まったころです。
久次岳は、比治山とも言います。
その東麓の里は、比次と書いて「ひさつぎ」と読んだりして、
「ふたあれ」から「ニ荒」→「にこう」⇒「日光」になったようなものです。
(ホ19B-25・26、ホ21-66、ホ25-7
Manai
 
高速道路も伸延して、与謝天橋立IC(よざ あまのはしだて)からだと、
20分そこそこだそうです。
Yosa
近々には、馬野周二先生を案内して、
登拝したのを思い出します。
平成14年11月3日のことでした。
この時か? あるいは、もっと前だったか?
には、応石(おおいし)の、
あるいは、サルタヒコ石や、降神岩など、
位置関係を訊ねまして、
貴重な伝承を得たことがありました。
そうでした、
平成14年よりももっと前の登拝の際でした。
さてさて、それはともかく、
明治11年の『五箇村郷土誌』から紐解いてまいりましょう。
峰山図書館にて見ることが出来ます。
なつかしいです。峰山図書館は高台で、閲覧室からの展望も綺麗だったような記憶もあります。
よく考えますと、マナイやハシタテには10回近くお参りにあがってもいますでしょうか?
あの時、峰山図書館へ何回目かに尋ねた際は、盛夏だったと思います。
蝉の声を記憶しています。
 
Kuji12
 
地図は、上を北にして表示しました。
解かり易くなりますので。
 
久次岳、あるいは、比治山とも呼ばれる、
この大切な岳の麓に、
久次の里があります。
大字の久次です。麻奈為神社がお祭りされています。
『延喜式』「神名帳」に記載のある、
比沼麻奈為神社であることは、確実でありましょう。
明治11年の『郷土誌』の地図をご覧ください。
もう少し拡大します。これからの地図は、上が西になります。
お山の詳細図が、上を西にしているためです。
 
Kuji0_2
 
上の方に、久次岳が見えますね。
ここに、アマテルカミのご陵所が営まれたことになります。
至って極めて重要なお山です。
大切なお山を、「岳」と呼んでいたのも、
久次岳の呼び名には残っていました。
比治岳から、右の方に、山を降ると、
不動を経て、麻奈為神社に至ります。
そして、
田んぼを越えますと、
舟岡神社に至ります。
○の文の、峰の端っこの小高いところ、五箇小学校の有るあたりが、
タニハミチウシの、その昔に、住まいしたのであろうと、
伝えられています。
タニハミチウシの長女のヒハスヒメさまは、
11代のイクメのキミ(垂仁天皇)に入内なさいまして、
正皇后になられます。
ヒハスヒメさまは、
12代のヲシロワケのキミ(景行天皇)のご生母になられます。
ご陵は、奈良の平城京跡のすぐ北側の佐紀古墳に、営まれまして、
参拝にあがりましても、うるわしい堀の池に守られていてホッと致します。
ヒハスヒメさまのご陵の時から、
ハニワを建ててお祭りすることが始まります。(ホ37アヤ11ページ)
現代考古学でいいますと、古墳時代の始まりの頃だと申せましょう。
 
ヒハスヒメさまのお育ちの土地が、
久次岳をほぼ真西に仰ぐ所だった訳で御座います。
朝日に輝くアメノマナイのお山は美しかったことで御座いましょう。
当時におきましても。
40年ほど前に探訪しました時の写真を、
『縄文日本のこころを旅する』の5章のトビラに掲げました。
タニハミチウシは、
9代のフトヒヒのキミ(開化天皇)のお孫さんにあたられます。
詳しくは『ホツマ辞典』の付録の系図をご覧ください。 
 
さて、
タニハミチウシが、どうして?
久次の里に居を構えたのか?
それは、アマテルカミのご陵を、
またさらに、トヨケカミのご陵を、
お守りして国家の再建に寄与したいと、
そう願ったからの事だと、わたくしは推察します。
ヲシテ時代の末期には、
ツヌガアラシトやアメヒホコなど、
帰化してくる人達の多くが海を渡ってまいります。
(『ホツマ辞典』291ページ参照)
現代にも、通じる所もありましょうや。
わが国の、その国がらとは何か?
問われること、喫緊にして、深刻さを増しておりましょうか?
 
さて、
本題は、お山の事でありました。
明治11年の『五箇村郷土誌』には、
久次山の山中の様子も、記されていました。
Kuji2_2
 
Kuji1_2
地図のところを、拡大します。
Kuji9
 
さて、
この略図だけでは、詳しくは判りませんね。
ただ、
久次山の山頂には特に、お祭りされている事も無くて、
山頂から、少し降った、
そのあたりに、「降神岩」があり、
小川を隔てて、「いなり岩」と「猿田彦岩」があり、
もう少し降ると、「清水 出る」の湧水を経て、
「かがみ岩(大石)」があります。
今現在は、「大石」よりも「応石」の呼び名の方が多いようです。
「かがみ岩(大石)」と「応石」は同じ岩を指していましょう。
さらに降ると、「不動滝」があります。
この、「不動滝」は登拝するのに、
禊ぎをするのにもってこいです。
でも、夏場は、ブヨが飛んで来て、私は困りましたのを思い出します。 
そして、今は、資料を探し出し得ませんでしたが、
比沼奈為神社の神主さんの先代のお方が纏めた資料に、 
「大神の森」が、久次岳の山頂から、
少し北に降ったところにある。
と、ありました事を思い出します。
何しろ、
松本善之助先生にお供して、
お参りにあがった時の事でした。
松本善之助先生とは、2~3回はお供して、
比沼麻奈為神社にあがりましたので、
いずれの際かも、不確かな記憶で御座います。
いずれにせよ、
40年は過ぎた、大昔の話でした。
どこかに、その資料は保存していた記憶がありますが、
山の中に埋もれています。
 
さて、 
馬野周二先生を案内して、
登拝した平成14年11月3日の話に戻します。
この時には、応石(おおいし)の、
あるいは、サルタヒコ石や、降神岩など、
位置関係を訊ねまして、
貴重な伝承を得ました。その地図を掲示します。
色つき付箋紙に、書かれた文字を読み易くするために、
感度の調整を2種類にします。赤で、注を入れました。
 
Kuji5_2
 
Kuji6_2
 
これから下は、「もりのたに」よりも麓の方になります。
Kuji7_2
 
Kuji8_2
 
 
どうでしょうか?
かなり、
いろいろ出てまいりました。でも、
良く聞きましたら、地元の皆様にも、
諸説が多く有って、
どの岩がどうなのかが、
はっきりしないようでした。
ヤマも崩れたりもしましょう。
そう言う事情が、真相だったことで御座いましょう。
わたくしは、サルタヒコの岩を探し求めて、
ややある大岩のところで、はいつくばりながら祝詞を奏上して、お神酒も捧げましたのを、
思い出しました。
もちろん、降神のところのことは申すまでもありません。
 
地元の皆様も、現在地の詳細のことは、
諸説が紛々のようでして、それは、おそれおおいことながら、
あばき行くような事柄ではないからですね。
本当にわたくしは拝みたかったので御座いました。
この貴さを、
これ程の貴さを、やっと、わかったのだから…、  で御座います。
 
さてさて、
ただ、
「降神岩」と、「大神の森(降神の森、ともいう)」と「応石(大石)」は、
皆さんがおおよそ一致でした。
それにしても不思議なのが、久次岳の山頂部には、
特にお祭りが無いのです。
どうした事か?
それで、良く良く考えていましたら、
御陵の、その前後関係ですね。
まず初めには、
トヨケカミが、「トヨケノリ」にて、
御陵となさいました。
この時に、アマテルカミも共に、のちにはご一緒のお山に入ろうと、
「ちぎって」おられたんですね。
お約束をなさっておられたんですね。
それで、
トヨケカミは「大神の森」にと、
山頂から一段下がったところをご陵となさった。
それは、アマテルカミを、山頂部にと、
御陵を築かれるためのご配慮だった、
と、考えられるのではあるまいか?
さらに、そののちに、
アマテルカミが、お約束を果たされて、
この大切なお山にお入りになるにあたって、
サルタヒコにアナを、
ホラアナですね、
これを掘らしめられたのでした。
それは、どうしても、ミチの師匠である、
トヨケカミの、その上に入る訳にはゆかないと、
それで、
一段下がったところにご陵を営まれた。
これが「降神岩」だとすると、納得できます。
また、
「猿田彦岩」も、サルタさんが穴を掘ったなら、
ここに岩があって、やっぱり納得できます。
また、
「いなり岩」も、ゆかりが深いです。
アマテルカミに入内なさったアチコさまの、父上がカタさんです。
カタのカミは、つまり、イナリカミですから、納得できます。
アチコさまは、ネ(北)のオキサキさまに入られたので、
トヨケカミの崩御の時に、
アマテルカミにお供してマナイのミヤにお仕えなさっておられたのです。
つまり、
アマテルカミの、アナを掘ったサルタヒコと、
トヨケカミの場合の同じ位置にあった。とも考えられます。
つまり、『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」には、
くわしくは記録はされていませんが、
トヨケカミの、アナを掘ったのはカタのカミだったと、
そう言うような推察も可能です。 
 
当然の事、
御陵の事は大切です。
宮内庁で管理をすべきだとの、推進運動もしてゆかねばなりません。
 
こんな大切なことが、
現代になって解かったのは、
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」の出現と現代研究の、
結果からです。
 
さて、どうしてゆくか?
恐れ多いもので御座います。
おかしなことをしますと、たたりが生じます。
Kuji10
 
Kuji11
 
ホノアカリさまのご陵が、
昭和の初めごろ、あばかれようとしたことが御座いましたが、
その5人の若者は、一年のうちに全部、
不慮の事故で亡くなったと聞き及びました。
5人とも、至って元気な若者だった話でした。
 
わたくしは、
大切な所に、お参りなど登拝します際は、
祝詞を、5・7調で書きまして奏上して、
お神酒を奉げてから、
お山に登らせて頂いています。
 
 
         ・
なお、ついでながら、
『延喜式』の記載名について、
比沼麻奈為神社よりも、
比治麻奈為神社の方が良さそうだと、
「皇典考究所、全国神職会、臨川書店」の『延喜式』、
昭和6年版には、
「沼(ぬま)」の文字を削って、
「治(おさめる)」に改めるべきだと主張が為されています。
Hinumanai
 
わたくしも、同様に考えます。
「治」の漢字を崩すと「沼」によく似ているのです。
写本の文字が、「沼」も「治」もバラバラにあります。
それで、
「天治矛」が、後世の伝承時代に、
「天沼矛」にと読み違いが為された。
と、これは『古事記』の例にありました。
Totodi
『古事記』の引用個所の一行目の、3文字目の字が、
あなたさまには、「沼」の文字に見えますか?
また、下からも3文字目の漢字が、
あなたさまには、「沼」の文字に見えますか?
わたくしの眼には、
どうみても「沼」ではなくて「治」の漢字に見えますがね。
詳しくは、
ご覧ください。173ページから、178 ページ。
おかしなことの、
そんな簡単な修正も、為し得ていないのが、
現状です。
こういった、漢字文献の研究の関連でも、
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」からの視点は、
わが国の貴さを、さらに増すべく、根拠を付与するものでありましょう。
 
            ・
 
混乱読みの事ですが、本当のところは、
「治」の漢字だったとすると、
比治麻奈為神社であったはずなので、
比次山とも相通います。
また、奇しきの意味で、「クシ」の「くしがたけ」にも、
相通じます。
「沼」の読み方は、どうも、
『古事記』の読み違いと同様の、
誤読みにいたずらされたとみるべきでしょう。
 
 
       ・          ・
 
なおなお、
ついでながら、
どうして?
「クシ」と「ヒチ」とのふたつの呼び名があるのか?
の、その訳を考えていました。
歴史における重層関係が、ここに有るのではないかと、
推考するようになりました。
 
つまり、
トヨケカミが「トヨケノリ」でおなくなりになられたこのお山を
「クシ」の「タケ」と呼んで大切にお守りしていた後に、
さらに、
ご約束の事から、
アマテルカミも、この貴いお山にお入りになられて、
それで、ご陵(おん みささぎ)を営まれまして、
お二方様の聖地となり、
「ヒチ」と呼ばれるようにもなったのではあるまいか?
ヲシテの文字を見るとすぐにも解かりますが、
「ク」のヲシテ文字は、子音の表象が経て一本です。
Ku_2
「ヒ」のヲシテ文字の子音の表象には経て二本です。
Hi
お二方様を、表す事として、「ヒチ」の名称はふさわしいように、
わたくしには思えます。
 
呼び名は変わります。
例えば、国号の事を思い出してみます。
当初の建国の際には、「トコヨクニ」でした。
初代のクニトコタチさまの時ですね。
それが、
「ヒノモト」の国号も称され初めまして、
「ヤマトクニ」の名称も興ります。
また、
10代目のニニキネさまの時代には、
「ホツマクニ」の国号も始まります。
 
そうして考えますと、
「クシ」と「ヒチ」のふた名も、
納得がゆくのではあるまいか? とも、思われます。
ふたつの呼び名は、
しかれど「ヤマト」な・すてそよ。ホ23アヤ12ページ。
「ヤマト」の国号も、おろしかにしないでおくべし、と。
Nasutesoyo
 
で、あって、
「クシ」も「ヒチ」も、
共に用いられた尊称だったのでしょう。
とは申しましても、
今の「ひさつぎ」の呼び名から、
もとの「クシ」を想像するのは大変なことで御座います。
「クシ」→「久次」→「ひさつぎ」
 
この、漢字国字化時代以降での変遷が分からないと、
江戸頃の近世から祭られたような神社に、
アメノマナイを現在地考証してしまう、
直訳の人達が居る事にもなります。
良く良くご判断下さい。
ヒハスヒメさまの時代でも、古墳時代の初めの頃なのです。
まして、
軽く見積もって、さらに1000年はもっと昔の時代です。
アマテルカミの、そのご陵の営まれたのはですね。
江戸時代以降に創建された神社にあててもしょうがないですよね。
 
 
               ・
 
想い出は、
いろいろと尽きません。
泉の如くにも、
あれやこれやと、湧き出してまいりました。
 
と、言いますのも、
実は、
高校生の時に、
夏休み、友達とで3人、
丹後半島の一周をしたことがありました。
テントを持って、もう、
47年も前になりましょうか?
琴引き浜に、惹かれた覚えがあります。
わたくしの、ヲシテ文献の遭遇の前です。
本当に不思議で御座います。
             ・
男の子が3人で、
今で言えば、不審者的なヨタヨタの3人がウロウロ歩いていたら、
ヘンですけれども、当時は、そう言う白眼視は有りませんでした。
わたくしたち、ウロウロの男の子の3人に、
採れたてのトマトを、近所のおばさんは恵んで下さいますように貰いました。
珍しかったんでしょうね。憐れんでくださいましたと、そういう事が、
実情で御座いましょう。
本当に、当時は、淋しいのが実情でした。
ともかくも、
その頂きましたトマトの味の濃厚さに、
本当にビックリの感動を覚えた記憶が、
今にもよみがえってまいります。
ほんとうにおいしかった。
あんなトマトの風味の豊かな味は、
あの時のトマトが、秀逸でした。
甘いだけではなくて、
いのちを育む味だと申しましたら、
お解り頂けましょうか?
香りも酸味もふくよかなうまみも。
わたくしの記憶には、体験には、舌と香りですね、
空前絶後でした。どうして? これほど美味しいのか? と。
それだけで、
こんなおいしいトマトの味を味わえたので、
充分の旅行の価値はあった訳で御座います。
 
そういえば、
女房も、おいしいもので、記憶のタグを張り付けているようです。
わたくしも、です。
似たもの夫婦なのでしょうかも?



不思議なご縁が、
丹後半島には、
何かいくつもあったのでしょうか?
本当に不思議なことで御座います。
不思議です。
わたくしの、『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」の、
その、遭遇の前からの事でした。
間人と書いてタイザと読むんですが、
聖徳太子のゆかりの深いところに、
何かしら憧れかあるいは繋がりか、
よくは判らない何かがあったのでしょうか?
今では「タイザ・ガニ」で有名にもなりました。
50年前には、自衛隊道路と言って、
険しい海岸部に道路設置をする工事が、
民間には出来なくて、結局、自衛隊に懇願して、
陸の孤島の生活道路が確保されていったのが、
丹後半島の実情だったこと。
それは、
長年に接してきての、わたくしの、実感として感じています。
 
どうして、丹後半島に、『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」を、
知らない前からも、不思議にも、惹かれてきていたのか?
不思議です。
 
そういえば、久美浜の海水浴場にも、
何回か誘われて行ったこともありました。
不思議です。

 
さらにさらにも、
小学生の時にも遡りますと、
伊根町の人と、
長らく文通をしておりました。
お名前もはっきりと覚えております。
小学生の時代の文通の友達は、
大勢いましたけれど、
丹後半島の伊根町の、
彼一人だけが、記憶にはっきりしています。
もう、
音信不通から、50年は過ぎておりますかもね。
でも、どうして? 丹後半島なのか?
でも、考えますと、
そんな 時の、むかしから、
何か しらの繋がりがあるんでしょうか?
不思議なことで御座います。
 
 
まだまだ先が御座います。
それは、
どうして?
トヨケカミが、この地にと、
赴かれたのか?
また、
アマテルカミが、この地にと、
トヨケカミの、人々へのご教導の事を願って、
ご請願を為されたのか?
そのあたりの、本当の実情について、
考えてゆきたいのです。
あと、
300年ほど、いのちが尽きませぬことを、
と願うようになりました。
わたくしは、南方熊楠ほどの才知に長けた頭脳も持ち合わせません。

それでなのでございます。
長くがんばるよりしょうが無い、自身の至らなさを思います。
もっと長い年月を掛けないと、
わたくしのような、それほどの天才的な才知には足りない人間にはピュッとした仕事は溌剌と表現できない。
わたくしには、時間を掛けてコツコツやってゆく仕事が、持ち味としての地場なんですね。
 
実際にある、この現状は、ある訳でして、
ここから、
何でも始まる訳ですね。
これって、「なかれき」「およくき」の原理だった!
とは、
本当にびっくりでございます。
わたくしは、糖質制限食の実行から、
アタマのめぐりも、
少しはマシになりました。
さてさて、
さてもの事で御座います、これからで御座います。
 
すごい人が、この10年来に20年来に、
出て来て下さいました。
間違いないおつきあいを、
真面目にさせてまいります。
要は、要点は、
記紀の原書の位置確認のことで御座います。
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」は、
記紀の原書であり、
記紀よりも上位に位置することを、
はっきりと御認識になれば、
おおよそ、
わたくしたちと基本認識の理解のベースは、
一致します。
それには、
ヲシテ文字の読み書きは、
それは、
絶対条件ともあり充分条件ともあり、
敷居のラインにあります事は、
クリアなさってくださいませ。
アマテルカミのお使いのヲシテ文字です、
読み書きが出来なかったら、どうにも、ヘンで御座います。
 
 
 
                 ・
あっと、
今、思い出しました。
アマテルカミのお祭りは、
宮中三殿で、立派に執りおこなって居られましたので御座いました。
失念しておりましたのが、申し訳ないことで、
御座いました。 ビジネス社さんからの出版です。
Kasikotokoro_2
また、
あちらこちら、
各地の、かみやしろ(神社)にても、
篤くお祭りも為されております。
このことを、
申し上げねばと思いました。
その、アマテルカミの、本当の偉大さは、
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」で、
初めて理解が及ぶのも、
驚愕の事実で御座います。
アマテルカミのお気持ちに、則して、読み易くしまして書きましたのが、
どうぞ、ご高覧のほどをお願い申し上げます。

「かしこ ところ」と「賢所(けんしょ)」のこと、
以前に、ラジオで、
「けんしょ」の言い方がいいんだと、叫んでいた人がいましたけれど、
それは、根拠がどうだかね?です。
と、言いますのも、
小学生か中学生向きの辞典を根拠にとって言ってるのが、
ラジオのアナウンサーでした。
もうちょっと勉強したらね?
とも思いますが、
中学生向きの簡単辞書を、流行させる世も世なので御座いますね。
それを根拠にしかできないのも、何たる情けなさ、で御座います。

 
正式には「かしこ ところ」と、
申し上げるのが、当たり前で御座います。
ただ、
恐れ多いので、
控えめな表現にて「賢所(けんしょ)」と、
そう言い表すのが、
女官などの言葉なのですね。

たとえば、
醤油なんて言い方は、控えて、「おむらさき」とか、
というわけですね。
その昔、醤油っていう言い方のない時代の、
奈良朝の時代だったら、「くご びしお」
だったんですね。
「供御 醤」、まあなんと、素敵な言い方で御座いましょうか?
上等の「醤(ひしお)」の、
その上を行く、最上等のもの、
それが、今のお醤油に、ほぼ近いので御座います。
「供御」とは、天皇陛下に献上する最上級の意味です。
わたくしたちは、現代、本当にありがたくも、贅沢な時代に、
生まれ合わせたと、
わたくしは、また感激をしております。
いつも、手軽に安価に、「供御醤」とほぼ同等の調味料を、
ふんだんに使えるので御座います。
ただ、
塩分の取り過ぎには、みなさま、ご注意くださいませ。



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2018年2月20日 (火)

松山市で出土した古鏡の、ホツマ文字らしきものの事。

あれは、もう27年も前の事かと、
思い出していました。
「ホツマ文字の鏡が見つかった!」
と、ニュースが飛び込んできたのでした。
Woshitemoji  
早速、明日にでもと、
飛び出していったものでした。
さて、割れているところが、微妙でした。
「月刊ほつま」に、掲載の記事を、
上に掲示いたしました。
あれから、もう27年ですが、
まだこれと言った、遺跡・遺物の発見は未だしです。

 
松山市考古館に、伺いまして、
じっと、本物の現物を凝視していました。
松山市考古館は、平成3年の当時は開館したての新しい建物でした。
ロビーのま新しいソファーに座って、小一時間、
これは、漢鏡だと納得しました。
でも、
写真を、ごろうじろで御座います。
写真を見ただけでは、
「ひ」と「は」のヲシテの文字だと、
そう見れますね。
「あ」の文字も有れば、「ん」のヲシテ文字風の形状もあります。
「こ」の文字風もありますね。
ですが、これらは、漢鏡にも見られる文字やデザインの形状です。
「ん」に似ている字は「毋」の字で、「なかれ(無かれ)」の文字ですね。
「毋(無かれ)」の字は「母(はは)」とは違う字ですが、
「ん」のヲシテの文字に似ています。
要するに、漢鏡には良く似た文字も多くあるのでした。
ですので、それらの文字は決め手にはなりませんが、
「ひ」と「は」のヲシテの文字は、漢鏡に出ない文字です。
これが「ひ」・「は」のヲシテ文字ならば、確定的な証拠になります。
 
と、意気込んで、松山市の考古館に辿り着いたのでした。
発掘した人にも話を伺う手筈も付けていました。
それで、現物の古鏡を目の前にして、
じっと見ていましたら、良く、その割れたところが、
とても微妙でした。
結局は、「ひ」だと見えた文字は、「長」の字の上半分だったと判明。
「は」だと見えた文字には、横に二本、尻尾の生えていた跡がうっすらとくっ付いていて、
「は」のヲシテ文字では無かったと判明しました。これは「見」の文字でした。
わたくしは、
大きなため息をついたのでした。
 
その時、
ちょうど、ある商社の広報誌から、
原稿依頼があったので、
それを書く事も念頭にあって、
ヤケ酒方々、宇和島市のビジネスホテルで、
徹夜して書いた原稿は、
結構良かったでした。
わたくしにとって、初めて原稿料を頂きましたものでした。
「変わぬもの、変わるもの」でしたでしたか?
「トのヲシテ」と、他の変わってゆくミチとの、
その区別を書きました。
 
なぜ?
宇和島市か?
宇和島市は、そう、小笠原家です。
『ホツマ ツタヱ』や『フトマニ』の写本をお守りくださっていた、
大切な旧家で御座います。
小笠原長弘さんや、小笠原長武さんなど、
他にも多くの小笠原家の方々の、
ご尽力の賜物です。『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」の、
その伝来・伝承の有り得ましたのはです。
特に、長武翁は、真剣に、
研究を長く続けて来て下さいました。
ご挨拶かたがた、お墓参りにと、
松山市から宇和島市まで足を延ばしましたので御座いました。
古鏡からのヲシテ文字発見のご報告が出来なかった事だけが、
残念で御座いました。
 
考古学の発掘の遺物から、
ヲシテ文字が出てきたら、ですね。
 
『ホツマ ツタヱ』のホツマ文字、
『ミカサフミ』なども同じ文字で書かれているので、
総称名でヲシテ文字と、そう、わたくしは呼んでいます。

そうです。
ヲシテ文字が出てきたら、
いっぺんに歴史は塗り替えることが出来るんですけれどね。
わたくしも、そう願う事は、
もう、長年にもなります。
 
今のところは、文献学的な根拠と、
国語学的な根拠を主張できるのみで御座います。
マスコミが本格的に動き出すのには、
誰の目にも、一目で、
目に見える証拠の品が、発掘されてからかも? です。
 
漫然と、この27年間を過ごしてきていた訳では御座いません。
もう、いつでもお応え出来る準備は、
わたくしどもの方では、整ってきております。
掲載記事を依頼してくださいました商社さんは、
ある商社、
そう、住友商事さんでした。
その広報誌に記事を書かせてもらってから、
もう、27年、
文章などの修行は積み重ねて来てまいりました。
 
もはや、私だけでなくて、
青木純雄さんや、平岡憲人さん、斯波克幸さんも、
著書を発表されるまでに、進んでこられました。
仮に、新聞社など数社からの依頼が同時に舞い込んでも、
おおよそ対応が可能です。
 
みなさま、
何か御発見がありましたら、
お知らせ願いたくお願い申し上げます。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2018年2月 9日 (金)

建国記念日の変更の事。  「伊勢志摩経済新聞」のこと。 『定本ホツマツタヱ』の初出荷で御座います。

いつもこの季節になると、
建国記念日の事を思います。
いったい、わが国の建国の成り立ちを、
どう考えるか? のことです。
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」の出現と、
現代研究から、
建国の祖は、初代のクニトコタチさんであると、
そう言えるようになったためです。
Amakami_3
         <29-66というのは、
          ホツマツタヱの29アヤの66ページに、
          ご即位の関連の記述があるという事です>
2月11日は、中興の祖のカンヤマトイワハレヒコのスヘラギの
つまりは、タケヒトさま、神武天皇のご即位を記念して祝う日です。
ですが、
中興の祖の記念日を、「建国記念日」とするのはおかしいわけです。
タケヒトさまは、二朝廷並立時代に終止符を打たれたお方さまであって、
建国の祖の位置には無かったことが判明したからです。
国祖はクニトコタチさんでありました!
そうなれば、しかるべく、クニトコタチさまの建国を以って、
建国記念をお祝いすべきなのです。
 
それは、
『古事記』『日本書紀』の本当の原書の出現によって、
国家存立の根拠が新たに、
正しく解かったからです。
旧来の、漢字国字化時代の間違いは、
正してゆくべきです。
神武以来2600年とか言っていた、歴史から、
本当は、
少なくとも、もっと3000年程度は遡るのが、
わが国の国家としての歴史です。
長く長く続いてきた、世界に冠たる歴史です。
復活させようじゃありませんか!!
すごい、私たちの本当の歴史を!
わたくしが、わが国の6000年の歴史と言っているのは、
そう言う意味合いで御座います。
 
そう言える、
その基礎が、
『古事記』『日本書紀』と、
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」との、
くわしい対比比較にあるのです。
              ・
その万全の根拠に、
『古事記』『日本書紀』と、
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」との厳密な、
対比比較をした書籍を出版しています。
『定本ホツマツタヱ』です。
Teihonhotuma
厳密に対比比較しましたら、
漢字文献類の『古事記』や『日本書紀』などよりも、
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」が、
もっと古い事が明白の白日の下に明らかになります。
この書籍こそ、一家に1っ冊だと思いますね。
漢字が国字になってからの、
誤った歴史を、マトモに直す基礎の書籍ですから。
そうしてこそ、
『古事記』『日本書紀』の誤訳をブッ飛ばすことが出来ます。
これからでございます。
この事は、
大きな、革新と言いますか、革命と言った方が適切かもしれませんね。
その、本当のちゃんとした基礎に、
ヲシテ時代の中期ごろの原字原文に親しむと、
本当に読み書きが出来たら、
ヲシテで、
ヲシテ文字の5・7調の古文ですね。
さわやかでうるわしいんです。
どうか、この、本当のわが国の大文明のうつくしさに、
来て下さい。
ちゃんと読んだら、
ちゃんと解かります。
なにしろ、なんでも三日坊主の女房が、
30年ぶりに、
べべちゃんのやり方を聞いて、
100円ショップの15字詰めノートに書き始めたら、
3冊目ぐらいから、言う事が違ってきたんですね。
私もビックリでした。 
 
ダンスでも言います。
説明して貰ったことを、今再現実験をしておけば、身に付くよ、と。
ヲシテだって、読んでから、書いてゆく段階で、1段か、2段階か、レベルUPしてるんでしょうね。

要は、
その世界がどう解かるかです。
なんでも、そんなにも、むつかしいことは有りません。
悩んで、一歩の踏み出しにためらう人は、
気にしなでという事を、わたくしはすすめます。
そんなに、他人の事なんて、誰も気にしたはいませんよ。


また、漢字以前のおおよそについて、
参考の辞典、
『ホツマ辞典』を出版しています。
Hotumajiten
辞典があって初めて、理解がたやすくなります。
従来の国語辞典や、古語辞典は、さっぱり役に立たないのです。
ヲシテ文献は、2000年近くのひょっこりのビックリ出現ですから…。
『ホツマ辞典』には、各語彙の出典箇所の表示もしています。
追認識の検証も容易にと、配慮しております。
系図も、添付しています。
A3の全紙の大きさで、折り曲げにも強くと、
和紙を使いました。通常印刷での、最大のスペースです。
クニトコタチさんから、
景行天皇の皇子のヤマトタケさんまで、
ヲシテ時代の全般を網羅しています。  
 
また、
『ホツマツタヱを読み解く』にて、
国家の建国当時からの解説をしています。
Yomitoku
国家の発生の建国の経緯の詳しい事情にも、
解説をしました。
なんと、もう、6刷りになっておりました!!
今見てみて、いささか、ビックリしました。
6刷りとは!
なんでも、忘れちゃって、トシを思います。
でも、前向きの活動はもっと元気になってきております。
『ホツマツタヱを読み解く』の書籍は、
漢字以前の時代の、歴史の教科書になるのかとも、
思い始めています。
それだけ、6刷りもの高い評価なので御座います。
有り難うございます。
一回にする部数が少ないので、
少々高額になってしまっております事は、
ご寛恕のほどをお願い申し上げます。
増刷のたびに、どれほどあたふたしてきて来ました事か?
今も思い出されます。冷や汗をいつもだらだらかきながらです。
物心両面の。
こんなカタイ本が、はたして売れるのか?
初めの出版のときもそうでしたが、増刷のたびにも、
ヒヤヒヤで御座いました。
この本は、馬野周二先生からだされました宿題で、
まとめた書籍でした。

 
           ・
 

その他、その後の研究の成果など、
青木純雄さんなどの大天才も出現して下さいましたから、
ヲシテの時代の国語の深奥の原理も、
段々と解かってまいりました。
ゾクゾクものです。
それらをも含めて、
国語の漢字以前の時代に遡る新解明の、
楽しく解かり易い解説書も、
出版しております。
あわせて、ご覧、ご高覧のほどをお願い申し上げます。
 
きっと、
あ、そうか、
そうなんだった!!
「建国記念日」は、その日程の変更が求められて、
しかるべきだと、ご納得を頂けます事で御座いましょう。 
 
もはや、
わたくしだけが主張している事だけでは御座いません。
東京の青木純雄さん。
大阪から、東京にと、
拠点を移しつつあられる、平岡憲人さん。
また、
静岡にと拠点を確保されつつある、斯波克幸さん。
その他にも、
記紀の原書が『ホツマツタヱ』など「ヲシテ文献」だと、
本気でお解り頂きます事を得た、
お方々も、
ビックリにも、多くのお方々にと、なっても参りました。
わたくしの息の有る内に、実現でき得るか?
悲惨な覚悟で、取り組み始めたのが、
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」の、
その、きちっとした根拠に基づく、ヲシテ国学の再構築の仕事でした。
 
どれほどと、
それは、困難の極みでも御座いましょうか?
45年来、それは悲観的な思いに圧迫されても来ていましたが、
少しは、
おだやかさも、このごろは、得つつも御座います。
有り難い事で御座います。
 
 
松本善之助先生の、真の、ご遺志がやっと、
前向きに動き出しつつある感を、
やっとのことで、覚え始めております。
トンネルは、45年間だったんですね。
いやいや、
50年かも知れませんです。
本当にホッとできますのは、です。
まだまだ、もっと先かも知れません。
気は抜けない事ばかりでは御座います。

とは申しましても。
ひと段落は、やっと近頃はあるかも? で御座います。
とにかくも、車の運転が、おだやかになったと、
女房も言っています。

三拝二拍手、一拝。
 
ありがとうございます。

 
 
            ・
志摩の、富山喜子さんのご努力が、段々と実を結んでまいりました。
 
初めての人には、
やっぱり、『ホツマ ツタヱ』です。
基礎ですから。
 それから、
『ミカサフミ』にも、また『フトマニ』などの『カクのミハタ』にもと、
歩を進めて貰います事になりましょう。
なにしろ、
漢字以前のわが文明は、
巨大でしたので、
概略な理解だけでも、そうとうな、時間を必要とします。
 
これまで、
やっつけの、パクリっぽい人たちが、
直訳ばかりに手を染めて、
それが、漢字の風下の位置に貶める、
安易な、お花畑の幸せに酔っていた時代。
もう、40年来の事でした。
いくら何でも、
その時代からは、そろそろ、
卒業にもなりつつもありましょうか?
冨山喜子さんの、「よ」のヲシテの文字の署名は、
松本善之助先生の、「よしのすけ」の「よ」と、
奇しくも一致の一緒でした。
良く良くなってゆく、の「よ」のヲシテの文字のイメージです。
 
 
本当に、わが国の未来を考えましたら、
ホツマ文字と言いますか、
ヲシテ文字の、本当の我が国の独自の、
文化・文明の根幹の基本は、
ヲシテ文字と、ヲシテ時代の中期の5・7調の、
文章のその文体の形態ですね。
これが、
現代に、ちゃんとよみがえることが、
非常に大切なことだと思います。
よって、ホツマ文字が、ヲシテ文字が、
満足に読めないもしないのに、
いっぱしに、ホツマを語るのがおかしい訳で御座います。
ヲシテが読めてこそ、
アマテルカミのお心が、
やっとわたくし達にも解かるんですから!!!
わたくしはそう思いますが、
間違っているので御座いましょうか?

 
ここが、
定礎の、本当の基礎のところだと思うんです。
この思いが、
普及するには、
あと何年かかりましょうか?
でも、
真実は、いつの日にかには、明らかになります事で御座いましょう。
その日に向けて、精進を続ける事のみで御座います。
 
 
                ・
本日、2月19日は、
『定本ホツマ ツタヱ』(松本善之助監修、池田満、展望社)
の3版の初出荷を致しました。
感慨深いです。
基本の書籍ですから、
記紀との、原文の対比の書籍は。
まあ、自分でやってみて下さいませ。
きっと、買った方がラクだと、
そう思われます事で御座いましょう。
本当に苦労をいたしました。
まあ、
ご購入の前に、図書館なりでご覧くださいませ。
でもねー、
『古事記』『日本書紀』との比較対比は、
基礎中の、ほんとうの、
基礎ですから、
ちゃんと見ておかないと、Chinaにやられちゃうんですね。
自分で比較をするのが、一番です。
それで、本物がなにか? が、解かります。
 
 
 
             ・
さてさて、
これからも、
問題が起こります。
真実が解かってからの対応が、
幾つもに分岐に分かれるのですね。
 

ひとつのところが、
「世間たら」と、
わたくしは名付けています。
世間が動き出したら、わたしも乗っかろう! の 日和見派です。
おおよそ、80%の人のウェイトになりましょうか?
わたくしの感覚です。
「世間が動き出したら」の人達が、ここ、45年来の、私の経験からしましたら、
この層が、多いです。ほとんどそう言う感覚です。
当たり前の感覚と申せます。

でも、
従来にない、本当の真実を知り目覚めたわたくし達は、
その層に、埋もれることは出来ませんね。
かつては、もっとひどい、直訳偽書の「秀真伝(しゅうしんでん)」の人達が、
うごめいていました。ひどかった、40年来の事でありました。
最期の線香花火が今村ホツマでしょうか?
彼は、はたして?
ホツマ文字と言いますか、ヲシテの文字を、読めるんでしょうか?
つねづねわたくしは、微妙な疑念を抱き続けて来ていました。
もう、20~30年来です。なぜならば、どうしてこんなことを言うの?
と、
それは、
直訳の偽書の「秀真伝(しゅうしんでん)」由来の解釈から来ているおはなしが、
多いと思うからです。わたくしも、誤認も、勿論御座いましょう。でも、絶対にこんな解釈はおかしいと、そういった、おはなしは、
見聞きしますと、気の遅いわたくしの耳にも寡聞にも聞こえても参ります。
 
大きな、
目的は何か?
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」の、
記紀の原書の出現によって、
国学を、
もういちど、
建て直さなくてはなるまい。
と、
わたくしは思うのであります。
本当に、
他意は御座いません。


あまり過激に走っても、現状と齟齬を生じますし、
そのあたりは、ご自身の今置かれた立場に勘案をなさってくださいまして、
とは言え、
やはり、
大きな、
おおやけの、
わが国の事にも、
また、
もっと大きな、
グローバルな、視点に立っての、
為しゆきの真理・理想に立ち向かっていって貰いたいです。
そこには、不肖わたくしも、及ばずながらもまじめにご協力をさせて戴きます。



 
 
 

 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2018年2月 3日 (土)

国語の縄文時代にての成立の事。わが国の歴史が、もっと遡って確定します。ドボルザークの「アメリカ」のこと。

わが国の成り立ちが、
2600年余で、世界一古いと、
そう、『古事記』『日本書紀』からの、
話から今どき言っていますが、実は、
もっと古いことが分かったんです。
Img0401
『古事記』『日本書紀』の原書が見つかって、
真面目に研究を進めてきたからです。
 
縄文時代の前期ごろまでに、
国語の基礎が完成していて、
縄文時代の前期の中葉には、
国家の存立が出来ていた事が、
ホツマツタヱなどヲシテ文献で判明したのです。
2600年どころじゃなくて、
少なくとも6000年はある訳です。
わが国の、本当の歴史です。
更にすごいのが、建国の原理が、
突拍子も無く、優れていたのでした。
「トのヲシヱ」といいます。
 
わが国の本当のすごさの真実のこと、
動かせぬ証拠のひとつが、
ヲシテによる国語の成立の解明です。
その解明書を、
『よみがえる日本語』と命名して出版しています。
1冊目が、概要編です。(上の表紙写真)
2冊目が、助詞編です。(下の表紙写真)
H25444
これから出す予定の、
動詞編や、形容詞類や、名詞編なども構想段階にあります。
 
平成24年に発見された、
『ミカサフミワカウタのアヤ』に、
「やまとことば」の初期の醸成段階の、
記述がありました。
「イカタとカモの ハシメヨリ ヤマトコトハの ミチアキテ」(ワー028)
「なかれき」と「およくき」の事を言っているわけです。
詳しくは、
『よみがえる縄文時代 イサナギ・イサナミのこころ 新発見ミカサフミワカウタのアヤ アマテルカミが解き明かす』(池田満、展望社)
をご覧ください。
Tyomigaeru1
さて、
上記の『よみがえる日本語』1冊目と、
題名で日本一長そうな、
『よみがえる縄文時代 イサナギ・イサナミのこころ 新発見ミカサフミワカウタのアヤ アマテルカミが解き明かす』が、
じわじわと減って来まして、在庫が無くなりつつあります。
さて、増刷か?
悩んでいるところで御座います。
わが国の、縄文建国のひとつの根拠証明の、
書籍です。
専門書扱いですから刷る部数は少ないので、
単価は高額になります。でも、在庫無しというわけにもゆかないでしょう。
これは、わが国の国家が縄文時代の建国であることを、
証明するための大切な書籍なのですから。
と、
わたくしは思います。
また、
『定本ホツマツタヱ』も、同じく、
わが国の国家が縄文時代の建国であることを、
証明するための大切な書籍なのです。
Teihonhotuma
『古事記』『日本書紀』と、『ホツマツタヱ』や、
『ミカサフミ』(同文個所)との、
対比比較をした書籍です。
諸写本の校合も頭注にしています。
これも、増刷です。
トリプルの増刷であります。
            ・
解説書の、
『ホツマツタを読み解く』などや、
Yomitoku
『ホツマ辞典』を、
Hotumajiten
ご覧いただくと、解かり易いです。
            ・
 
さらに、もっと、
 
楽しくもっと解かり易いのが、
『ホツマ縄文日本のたから』や、
Hotumatakara
『縄文人のこころを旅する』や、
Tabisuru
『ホツマで読むヤマトタケ物語』も
Yamatotake
ご覧くださいますと、楽しく解かります。
 
        ・           ・
 
ヲシテ国学は、
まったくの新しい分野で御座います。
2000年来の、革新です。
 
よく勘違いされるお方が多いですが、
従来の、2000年来に培われた旧学説類は、
そのほとんどが、役に立ちません。
そういう事からしましたら、
新世界の展開になる訳で御座います。
漢字時代での旧学会や、それらの諸々のことは、
一切がほとんど役に立たないので御座います。
新たな古典の出現には、
古典に向かう基礎としての、
王道の、
暗唱や、原字原文での読み書き、
暗記も出来たら素晴らしいです。
その基礎が、どうしても必要です。
まずは、原文の読み書きを!
そう、わたくしは45年を越えるまでに叫んでまいりました。
あと5年で、半世紀の叫び続けになります。
このところは、
やっと、ご理解くださいますお方様も、
多くなってまいりました。
まさに、
新大陸に発展してくるか? の、小笠原の西之島のような、
そういう状況が、ぴったしです。
いや、もう、新大陸なのだと思います。潜在的な価値は、巨大です。
でも現状は、西之島程度の雰囲気でしかない、
というのが、
ヲシテ国学の今です。
 
 
そういえば、
 
地球の寒冷化は、その実体の現象が、
次々に現われてもいるようです。
真実なんかに負けないで、恣意的な報道を貫く機関も有りますけれど、
いつの日にかは、真実は顕われるものだと、私は思います。

               ・
 
 
昨日は、
久しぶりに、
近所のダンスのパーティに行ってまいりましたら、
顔なじみの人から、
だいぶ上手になったわ。
と、
また、
ファンが増えたと、ダンスのミツル・ファンのことです。
音楽表現を主にしてダンスを!
と、ずっと追い求めてもいましたので、
ワルツを踊った感じが、ルンバを踊った感じがする。
と、そう言う感想を得ました。
それが、帰りがけに噂になったと知らせてくれました。
定年後にダンスを再開して、3年になります。
石の上にも3年です、か。
足腰鍛錬に、プラスしての表現の技術の勉強です。
もう、どっちが主体か解からなくもなって来ましたです。
 
このところ、
女房が、自慢のミツルなんて言い始めました。
もう、35年は一緒に暮らしています。
急に風向きが変わって来ました。

ダンスは3年。
女房は35年。
さて、ヲシテは?
 
ヲシテの方は、もう、45年にもなります。
こちらは、もっと年月が必要なようで御座います。
内容がむつかしくって高度なためですね。

女房が、ドボルザークのCDを聞きたいんだけど、
ボーズのCDプレーヤーがうまくゆかないと言って来ました。
CDが引っ掛かって出て来ちゃうんだ、と
以前に修理に出しましたら、15000円の修理費で、
それが、うまくは直ってもこなかったんでした。
わたくしの好きな曲でして、
女房も気に入ったみたいでした。
また出て来ちゃうんだ。
と言います。
メーカーのボーズに修理に出しても、また同じことだと、
それで分解してみましたら、
金具の曲がりに難ありと、判明しましたので、
指でちょっと曲げてみたら、
難なく修理が完了になりました。
何でもミツルだ、と、女房が言っていました。
 
新世界の雰囲気です。
疲れた時、心理的に、明るい気分になって、
前向きの気持ちを掻き立ててくれる曲だと、
わたくしの中学生の時からの愛好曲のひとつです。
旧世界からの解き放ちを感じます。
かつての学閥主義的なものも、
ヲシテ国学のもとには、すべてがご破算です。
また、これから新しく形成されてゆくだけのものであるわけです。
なにしろ、
大陸の形態が根底からそっくりと変わってしまうのです。
ヲシテ国学に対して、旧学問と言うのが、
区別だと思います。
 
スメタナよりも、アマデウスの方が良いですね。
活きていますね、曲が。語りかけてくれます。
演奏家によって、こんなにも違うんですね。
今日の発見でした。
アマデウスの演奏を聞くのは、今日が初めてでした。
わたくしは、ずっと、スメタナのクァルテットの演奏を聞いて来てまいりました。
初めて聞くようなメロディックがあらゆるところにあって、ゾクゾクしました。
メロディアスと言うべきか?
何で? こんなに違うの?!!
 ビックリでした。
ネットは、有り難いです。
聞き直してみて、初めての発見でした。
CDのボーズのプレーヤーが不具合のおかげですね。
何ごとも、塞翁が馬。
 
また、ダンスももう一段、面白く楽しい爽やかさを加えての、
雰囲気にも表現できそうな、これからの前向きさを、
得れるかも? と、
感じてまいりました。
それは、文章などの表現の能力にも通じる事であります。
文章力のことは、松本善之助先生から、もっと磨くようにと、
常々に言われてまいりました。
それはその筈で、ハタチの20才前後の私の文章は、
もう、今思いますと、冷や汗一升程度のもので御座います。
谷川士清が、反古塚に埋めたのも、今になって、私にもその気持ちがやっとわかります。
何でも、勉強で、
少しづつの向上を毎日積み重ねましたら、
アマデウスのクァルテットにも成り得ましょう。
と、そう、わたくしも願って、また、精進で御座います。
ややこしいことを、どう解かり易く説明できるか?
ですね。
その、最っともの最たるキモの要点の事です。
 
さて、ヲシテ国学ともなりますと、
大きな仕事の、主は、
『古事記』『日本書紀』のブッ飛ばしですから、
大変です。ヲシテ国学とは、漢字への誤訳が大問題だったと、
その、約2000年前に立ち戻っての歴史の改訂作業です。
たいていの人はビビっちゃうこと請け合いです。
でも、
こんなにもすごい、わが国の宝石の精神に、
触れてしまったら、
もう、
ほっとくことは、私には出来ないんですね。
この思いは、段々と広がってきていますことは、
もう、
潮流にもなりつつも有りましょうか?
まだまだ、時間は必要ですね。
 
           ・
 
アマデウスのクァルテットの演奏を聴きまして、
もっとやってゆかねばと、
そう思いました次第で御座いました。
ドボルザークの思いも、アマデウス楽団によってこそですね。
で、
ヲシテのその素晴らしさは、
青木純雄さんの天才の出現など。
つまり、国語の成り立ちの枢要を解明した人物、や、
この他にも、もっと、もっと他にも幾人もの天才が現われてこそ、
さらの、もっと輝きを増すのだと、なにしろ、わが国の文明のすごさは底なしの深さがあるようなのです。そう、わたくしは感じております。
平成24年に新発見の『ミカサフミワカウタのアヤ』で、
どれほどに我が国語の原理が崇高なまでに解き明かされたか!!!
たった、5~6年の前の事でした!
地球の地殻の活動期にも同期もしているのでしょうか、
不思議です。大変革期ですね。
物理的ではない、新大陸の出現です。
でも、
肝心なところは、
40年来の直訳の直訳偽書の「秀真伝(しゅうしんでん)」では、
漢字文献の古事記や日本書紀の、
その支配下の元のままです。
直訳では、わが国の本当の文明の輝きは見えてはまいりません。
すでに、
2000年もの前から、やられちゃっていたんですよ。
その迷妄を醒ます、覚醒の時期がここに来り得ています!
原字原文のヲシテの文字・ヲシテ時代の文章の原文に立ち戻ってこそ、
Chinaのおかしげな呪縛から、やっと、解き放たれます。
これ程にも大きな、変革の刃が喫緊に迫っても来ていても、
坂本竜馬や、吉田松陰にも、
はたして、彼等が今生きていて気が付くのかどうか?
と、
わたくしは思います。
何故ならば、古典は、原字原文で読んでこそ、
その真価が解かってくるからで御座います。
2000年以上も時代を離れた古典が、
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」です。 
直訳なんかしたら、
目も当てられない、ひどい誤訳ばかりです。
それが、貶めに相当するのだと、解かる人も出て来て下さいました。





 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2018年2月 1日 (木)

ホツマツタヱなどヲシテ文献は、新規の学問分野です。

何やかんやと、言われもしますが、
ホツマツタヱなどヲシテ文献の、
その分野は、
全くの、50年前に始まったばかりの、
新分野です。
Kohitu
         <読み直して、感涙でした>
まさに、
文字から覚えて下さい。
です。ヲシテは。
大変です。
ですので、
これから、
大学も必要ですし、その前段階の事にも必要とされてもいます。
でも、
まだ、
発見から50年ですので、
定着はまだまだ、まだまだ先の事です。
過去、某大学で講座の開講も企画されましたが、
一名不足で、その際の企画は流れました。
その時の、講師にも問題ありでしたから、
何とも言えないです。この、評価をわたくしは、そう言うほか御座いません。
 
とにもかくにも、
時代は、これからの事で御座います。
ようよう、ヲシテ文字とヲシテの文章に親しんでくださいますお方様も、
出て来て下さいました。
直訳文で見る世界と、
ヲシテ時代の原文を、ヲシテの文字の原字で読むと、
その世界観の違いが、
ずっと、
お解り頂いてきたお方も多くなって来ました。
それでこそで御座います。
古典は、原字原文です。
やっと、
幾星霜、
ここまでも来ましたもので御座いましょうか?
松本善之助先生も、
きっと、
お喜びのことだと、追想を致しております。
今日も、『記紀原書ヲシテ』の下巻が、鹿児島のお方に、
買って頂きました。
原字を原文で、お読みになってこそ、
お書きになって、写経のように、
それでこそ、本物だと確信が生まれるものだと思います。
30年来、やってこなかった、女房の、初めてのトライから、
その感嘆の言葉です。
 
思いますれば、
小松茂美博士のことを、
松本善之助先生はわたくしに教えてお示し下さいました。
何故かと申しましたらば、
ホツマツタヱなどヲシテ文献の先学は、まず、いなかった訳で御座います。
松本善之助先生も、当時手探り状態です。
だれも、聞くべき人もいないので、
自分で切り開くことしか、他に、ミチは無いのです。
そうなのでした、
もとより、ホツマツタヱなどヲシテ文献のこと、
先学と言うのも、
はなはだ、当時も無き状態で御座います。
自分で切り開いてゆくほか、
頼ることも出来得ません。
小松茂美博士の歩んだ道は、
ヲシテ国学の樹立のミチと、
まさに、
重なります。
平家納経も、まとまった研究は、いまだしだったのが、
小松茂美博士の若かりし頃の状況です。
 

きょうは、読み直しておりました。
また、涙する状況で御座いました。
もう、茂美さんもお亡くなりの事で、
悲しい事で御座います。
一度、お目に掛かってもみたかったと、
今にして思いました。良く考えましたら、残念なことでした。
でも、
その火の情熱は、受け継ぐべきモノだと、
そう思うことしきりの事で御座います。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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