比沼麻奈為神社のこと、アマテルカミの御陵のこと。アメノマナヰ、久次岳。タニハミチウシやヒハスヒメさまの事。 宮中三殿の事。
アマテルカミのご陵の事、
本当に大切です。
わたくしは、お参りにあがります事、
5回の上には重ねていると思います。
女房と、入籍のあとに、報告の旅行に行ったこともありました。
あのときは、寒くて、
久次岳は、雪が残っていて美しかったでした。
その時の写真を、『縄文日本のこころを旅する』(池田満、展望社)
の5章のトビラに使いました。
71ページです。
この写真の右側には、わたくし達が写っていましたが、
さすがにそこは、カットして掲載しました。
当時は峰山町で、
今は、
京丹後市になりました。
天橋立から、約30分車で入ったところです。
久次岳(くじがたけ、くじたけ)が、アマテルカミのご陵でして、
お祭りのお社が、比沼奈為神社と言う理解で、
良いでしょう。
明治天皇の場合に照らしていいますと、
なお、アマテルカミのお祭りは、
伊勢神宮の内宮にもお遷しされます。ウチミヤといいました。
トヨケカミのお祭りは、
伊勢神宮の外宮にもお遷しされます。当時は、トミヤといいました。
11代のイクメのキミ(垂仁天皇)の時の事でした。
『ホツマ ツタヱ』36アヤ34ページあたりが詳しいです。
アススの714年、考古学でいいますと、
古墳時代の始まったころです。
久次岳は、比治山とも言います。
その東麓の里は、比次と書いて「ひさつぎ」と読んだりして、
「ふたあれ」から「ニ荒」→「にこう」⇒「日光」になったようなものです。
(ホ19B-25・26、ホ21-66、ホ25-7)
高速道路も伸延して、与謝天橋立IC(よざ あまのはしだて)からだと、
20分そこそこだそうです。
近々には、馬野周二先生を案内して、
登拝したのを思い出します。
平成14年11月3日のことでした。
この時か? あるいは、もっと前だったか?
には、応石(おおいし)の、
あるいは、サルタヒコ石や、降神岩など、
位置関係を訊ねまして、
貴重な伝承を得たことがありました。
そうでした、
平成14年よりももっと前の登拝の際でした。
さてさて、それはともかく、
明治11年の『五箇村郷土誌』から紐解いてまいりましょう。
峰山図書館にて見ることが出来ます。
なつかしいです。峰山図書館は高台で、閲覧室からの展望も綺麗だったような記憶もあります。
よく考えますと、マナイやハシタテには10回近くお参りにあがってもいますでしょうか?
あの時、峰山図書館へ何回目かに尋ねた際は、盛夏だったと思います。
蝉の声を記憶しています。
地図は、上を北にして表示しました。
解かり易くなりますので。
久次岳、あるいは、比治山とも呼ばれる、
この大切な岳の麓に、
久次の里があります。
大字の久次です。麻奈為神社がお祭りされています。
『延喜式』「神名帳」に記載のある、
比沼麻奈為神社であることは、確実でありましょう。
明治11年の『郷土誌』の地図をご覧ください。
もう少し拡大します。これからの地図は、上が西になります。
お山の詳細図が、上を西にしているためです。
上の方に、久次岳が見えますね。
ここに、アマテルカミのご陵所が営まれたことになります。
至って極めて重要なお山です。
大切なお山を、「岳」と呼んでいたのも、
久次岳の呼び名には残っていました。
比治岳から、右の方に、山を降ると、
不動を経て、麻奈為神社に至ります。
そして、
田んぼを越えますと、
舟岡神社に至ります。
○の文の、峰の端っこの小高いところ、五箇小学校の有るあたりが、
タニハミチウシの、その昔に、住まいしたのであろうと、
伝えられています。
タニハミチウシの長女のヒハスヒメさまは、
11代のイクメのキミ(垂仁天皇)に入内なさいまして、
正皇后になられます。
ヒハスヒメさまは、
12代のヲシロワケのキミ(景行天皇)のご生母になられます。
ご陵は、奈良の平城京跡のすぐ北側の佐紀古墳に、営まれまして、
参拝にあがりましても、うるわしい堀の池に守られていてホッと致します。
ヒハスヒメさまのご陵の時から、
ハニワを建ててお祭りすることが始まります。(ホ37アヤ11ページ)
現代考古学でいいますと、古墳時代の始まりの頃だと申せましょう。
ヒハスヒメさまのお育ちの土地が、
久次岳をほぼ真西に仰ぐ所だった訳で御座います。
朝日に輝くアメノマナイのお山は美しかったことで御座いましょう。
当時におきましても。
40年ほど前に探訪しました時の写真を、
『縄文日本のこころを旅する』の5章のトビラに掲げました。
タニハミチウシは、
9代のフトヒヒのキミ(開化天皇)のお孫さんにあたられます。
詳しくは『ホツマ辞典』の付録の系図をご覧ください。
さて、
タニハミチウシが、どうして?
久次の里に居を構えたのか?
それは、アマテルカミのご陵を、
またさらに、トヨケカミのご陵を、
お守りして国家の再建に寄与したいと、
そう願ったからの事だと、わたくしは推察します。
ヲシテ時代の末期には、
ツヌガアラシトやアメヒホコなど、
帰化してくる人達の多くが海を渡ってまいります。
(『ホツマ辞典』291ページ参照)
現代にも、通じる所もありましょうや。
わが国の、その国がらとは何か?
問われること、喫緊にして、深刻さを増しておりましょうか?
さて、
本題は、お山の事でありました。
明治11年の『五箇村郷土誌』には、
久次山の山中の様子も、記されていました。
地図のところを、拡大します。
さて、
この略図だけでは、詳しくは判りませんね。
ただ、
久次山の山頂には特に、お祭りされている事も無くて、
山頂から、少し降った、
そのあたりに、「降神岩」があり、
小川を隔てて、「いなり岩」と「猿田彦岩」があり、
もう少し降ると、「清水 出る」の湧水を経て、
「かがみ岩(大石)」があります。
今現在は、「大石」よりも「応石」の呼び名の方が多いようです。
「かがみ岩(大石)」と「応石」は同じ岩を指していましょう。
さらに降ると、「不動滝」があります。
この、「不動滝」は登拝するのに、
禊ぎをするのにもってこいです。
でも、夏場は、ブヨが飛んで来て、私は困りましたのを思い出します。
そして、今は、資料を探し出し得ませんでしたが、
比沼奈為神社の神主さんの先代のお方が纏めた資料に、
「大神の森」が、久次岳の山頂から、
少し北に降ったところにある。
と、ありました事を思い出します。
何しろ、
松本善之助先生にお供して、
お参りにあがった時の事でした。
松本善之助先生とは、2~3回はお供して、
比沼麻奈為神社にあがりましたので、
いずれの際かも、不確かな記憶で御座います。
いずれにせよ、
40年は過ぎた、大昔の話でした。
どこかに、その資料は保存していた記憶がありますが、
山の中に埋もれています。
さて、
馬野周二先生を案内して、
登拝した平成14年11月3日の話に戻します。
この時には、応石(おおいし)の、
あるいは、サルタヒコ石や、降神岩など、
位置関係を訊ねまして、
貴重な伝承を得ました。その地図を掲示します。
色つき付箋紙に、書かれた文字を読み易くするために、
感度の調整を2種類にします。赤で、注を入れました。
これから下は、「もりのたに」よりも麓の方になります。
どうでしょうか?
かなり、
いろいろ出てまいりました。でも、
良く聞きましたら、地元の皆様にも、
諸説が多く有って、
どの岩がどうなのかが、
はっきりしないようでした。
ヤマも崩れたりもしましょう。
そう言う事情が、真相だったことで御座いましょう。
わたくしは、サルタヒコの岩を探し求めて、
ややある大岩のところで、はいつくばりながら祝詞を奏上して、お神酒も捧げましたのを、
思い出しました。
もちろん、降神のところのことは申すまでもありません。
地元の皆様も、現在地の詳細のことは、
諸説が紛々のようでして、それは、おそれおおいことながら、
あばき行くような事柄ではないからですね。
本当にわたくしは拝みたかったので御座いました。
この貴さを、
これ程の貴さを、やっと、わかったのだから…、 で御座います。
さてさて、
ただ、
「降神岩」と、「大神の森(降神の森、ともいう)」と「応石(大石)」は、
皆さんがおおよそ一致でした。
それにしても不思議なのが、久次岳の山頂部には、
特にお祭りが無いのです。
どうした事か?
それで、良く良く考えていましたら、
御陵の、その前後関係ですね。
まず初めには、
トヨケカミが、「トヨケノリ」にて、
御陵となさいました。
この時に、アマテルカミも共に、のちにはご一緒のお山に入ろうと、
「ちぎって」おられたんですね。
お約束をなさっておられたんですね。
それで、
トヨケカミは「大神の森」にと、
山頂から一段下がったところをご陵となさった。
それは、アマテルカミを、山頂部にと、
御陵を築かれるためのご配慮だった、
と、考えられるのではあるまいか?
さらに、そののちに、
アマテルカミが、お約束を果たされて、
この大切なお山にお入りになるにあたって、
サルタヒコにアナを、
ホラアナですね、
これを掘らしめられたのでした。
それは、どうしても、ミチの師匠である、
トヨケカミの、その上に入る訳にはゆかないと、
それで、
一段下がったところにご陵を営まれた。
これが「降神岩」だとすると、納得できます。
また、
「猿田彦岩」も、サルタさんが穴を掘ったなら、
ここに岩があって、やっぱり納得できます。
また、
「いなり岩」も、ゆかりが深いです。
アマテルカミに入内なさったアチコさまの、父上がカタさんです。
カタのカミは、つまり、イナリカミですから、納得できます。
アチコさまは、ネ(北)のオキサキさまに入られたので、
トヨケカミの崩御の時に、
アマテルカミにお供してマナイのミヤにお仕えなさっておられたのです。
つまり、
アマテルカミの、アナを掘ったサルタヒコと、
トヨケカミの場合の同じ位置にあった。とも考えられます。
つまり、『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」には、
くわしくは記録はされていませんが、
トヨケカミの、アナを掘ったのはカタのカミだったと、
そう言うような推察も可能です。
当然の事、
御陵の事は大切です。
宮内庁で管理をすべきだとの、推進運動もしてゆかねばなりません。
こんな大切なことが、
現代になって解かったのは、
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」の出現と現代研究の、
結果からです。
さて、どうしてゆくか?
『縄文日本のこころを旅する』にも書きましたが、
恐れ多いもので御座います。
おかしなことをしますと、たたりが生じます。
ホノアカリさまのご陵が、
昭和の初めごろ、あばかれようとしたことが御座いましたが、
その5人の若者は、一年のうちに全部、
不慮の事故で亡くなったと聞き及びました。
5人とも、至って元気な若者だった話でした。
わたくしは、
大切な所に、お参りなど登拝します際は、
祝詞を、5・7調で書きまして奏上して、
お神酒を奉げてから、
お山に登らせて頂いています。
・
なお、ついでながら、
『延喜式』の記載名について、
比沼麻奈為神社よりも、
比治麻奈為神社の方が良さそうだと、
「皇典考究所、全国神職会、臨川書店」の『延喜式』、
昭和6年版には、
「沼(ぬま)」の文字を削って、
「治(おさめる)」に改めるべきだと主張が為されています。
わたくしも、同様に考えます。
「治」の漢字を崩すと「沼」によく似ているのです。
写本の文字が、「沼」も「治」もバラバラにあります。
それで、
「天治矛」が、後世の伝承時代に、
「天沼矛」にと読み違いが為された。
と、これは『古事記』の例にありました。
『古事記』の引用個所の一行目の、3文字目の字が、
あなたさまには、「沼」の文字に見えますか?
また、下からも3文字目の漢字が、
あなたさまには、「沼」の文字に見えますか?
わたくしの眼には、
どうみても「沼」ではなくて「治」の漢字に見えますがね。
詳しくは、
ご覧ください。173ページから、178 ページ。
おかしなことの、
そんな簡単な修正も、為し得ていないのが、
現状です。
こういった、漢字文献の研究の関連でも、
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」からの視点は、
わが国の貴さを、さらに増すべく、根拠を付与するものでありましょう。
・
混乱読みの事ですが、本当のところは、
「治」の漢字だったとすると、
比治麻奈為神社であったはずなので、
比次山とも相通います。
また、奇しきの意味で、「クシ」の「くしがたけ」にも、
相通じます。
「沼」の読み方は、どうも、
『古事記』の読み違いと同様の、
誤読みにいたずらされたとみるべきでしょう。
・ ・
なおなお、
ついでながら、
どうして?
「クシ」と「ヒチ」とのふたつの呼び名があるのか?
の、その訳を考えていました。
歴史における重層関係が、ここに有るのではないかと、
推考するようになりました。
つまり、
トヨケカミが「トヨケノリ」でおなくなりになられたこのお山を
「クシ」の「タケ」と呼んで大切にお守りしていた後に、
さらに、
ご約束の事から、
アマテルカミも、この貴いお山にお入りになられて、
それで、ご陵(おん みささぎ)を営まれまして、
お二方様の聖地となり、
「ヒチ」と呼ばれるようにもなったのではあるまいか?
ヲシテの文字を見るとすぐにも解かりますが、
「ク」のヲシテ文字は、子音の表象が経て一本です。
「ヒ」のヲシテ文字の子音の表象には経て二本です。
お二方様を、表す事として、「ヒチ」の名称はふさわしいように、
わたくしには思えます。
呼び名は変わります。
例えば、国号の事を思い出してみます。
当初の建国の際には、「トコヨクニ」でした。
初代のクニトコタチさまの時ですね。
それが、
「ヒノモト」の国号も称され初めまして、
「ヤマトクニ」の名称も興ります。
また、
10代目のニニキネさまの時代には、
「ホツマクニ」の国号も始まります。
そうして考えますと、
「クシ」と「ヒチ」のふた名も、
納得がゆくのではあるまいか? とも、思われます。
ふたつの呼び名は、
しかれど「ヤマト」な・すてそよ。ホ23アヤ12ページ。
「ヤマト」の国号も、おろしかにしないでおくべし、と。
で、あって、
「クシ」も「ヒチ」も、
共に用いられた尊称だったのでしょう。
とは申しましても、
今の「ひさつぎ」の呼び名から、
もとの「クシ」を想像するのは大変なことで御座います。
「クシ」→「久次」→「ひさつぎ」
この、漢字国字化時代以降での変遷が分からないと、
江戸頃の近世から祭られたような神社に、
アメノマナイを現在地考証してしまう、
直訳の人達が居る事にもなります。
良く良くご判断下さい。
ヒハスヒメさまの時代でも、古墳時代の初めの頃なのです。
まして、
軽く見積もって、さらに1000年はもっと昔の時代です。
アマテルカミの、そのご陵の営まれたのはですね。
江戸時代以降に創建された神社にあててもしょうがないですよね。
・
想い出は、
いろいろと尽きません。
泉の如くにも、
あれやこれやと、湧き出してまいりました。
と、言いますのも、
実は、
高校生の時に、
夏休み、友達とで3人、
丹後半島の一周をしたことがありました。
テントを持って、もう、
47年も前になりましょうか?
琴引き浜に、惹かれた覚えがあります。
わたくしの、ヲシテ文献の遭遇の前です。
本当に不思議で御座います。
・
男の子が3人で、
今で言えば、不審者的なヨタヨタの3人がウロウロ歩いていたら、
ヘンですけれども、当時は、そう言う白眼視は有りませんでした。
わたくしたち、ウロウロの男の子の3人に、
採れたてのトマトを、近所のおばさんは恵んで下さいますように貰いました。
珍しかったんでしょうね。憐れんでくださいましたと、そういう事が、
実情で御座いましょう。
本当に、当時は、淋しいのが実情でした。
ともかくも、
その頂きましたトマトの味の濃厚さに、
本当にビックリの感動を覚えた記憶が、
今にもよみがえってまいります。
ほんとうにおいしかった。
あんなトマトの風味の豊かな味は、
あの時のトマトが、秀逸でした。
甘いだけではなくて、
いのちを育む味だと申しましたら、
お解り頂けましょうか?
香りも酸味もふくよかなうまみも。
わたくしの記憶には、体験には、舌と香りですね、
空前絶後でした。どうして? これほど美味しいのか? と。
それだけで、
こんなおいしいトマトの味を味わえたので、
充分の旅行の価値はあった訳で御座います。
そういえば、
女房も、おいしいもので、記憶のタグを張り付けているようです。
わたくしも、です。
似たもの夫婦なのでしょうかも?
不思議なご縁が、
丹後半島には、
何かいくつもあったのでしょうか?
本当に不思議なことで御座います。
不思議です。
わたくしの、『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」の、
その、遭遇の前からの事でした。
間人と書いてタイザと読むんですが、
聖徳太子のゆかりの深いところに、
何かしら憧れかあるいは繋がりか、
よくは判らない何かがあったのでしょうか?
今では「タイザ・ガニ」で有名にもなりました。
50年前には、自衛隊道路と言って、
険しい海岸部に道路設置をする工事が、
民間には出来なくて、結局、自衛隊に懇願して、
陸の孤島の生活道路が確保されていったのが、
丹後半島の実情だったこと。
それは、
長年に接してきての、わたくしの、実感として感じています。
どうして、丹後半島に、『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」を、
知らない前からも、不思議にも、惹かれてきていたのか?
不思議です。
そういえば、久美浜の海水浴場にも、
何回か誘われて行ったこともありました。
不思議です。
さらにさらにも、
小学生の時にも遡りますと、
伊根町の人と、
長らく文通をしておりました。
お名前もはっきりと覚えております。
小学生の時代の文通の友達は、
大勢いましたけれど、
丹後半島の伊根町の、
彼一人だけが、記憶にはっきりしています。
もう、
音信不通から、50年は過ぎておりますかもね。
でも、どうして? 丹後半島なのか?
でも、考えますと、
そんな 時の、むかしから、
何か しらの繋がりがあるんでしょうか?
不思議なことで御座います。
まだまだ先が御座います。
それは、
どうして?
トヨケカミが、この地にと、
赴かれたのか?
また、
アマテルカミが、この地にと、
トヨケカミの、人々へのご教導の事を願って、
ご請願を為されたのか?
そのあたりの、本当の実情について、
考えてゆきたいのです。
あと、
300年ほど、いのちが尽きませぬことを、
と願うようになりました。
わたくしは、南方熊楠ほどの才知に長けた頭脳も持ち合わせません。
それでなのでございます。
長くがんばるよりしょうが無い、自身の至らなさを思います。
もっと長い年月を掛けないと、
わたくしのような、それほどの天才的な才知には足りない人間にはピュッとした仕事は溌剌と表現できない。
わたくしには、時間を掛けてコツコツやってゆく仕事が、持ち味としての地場なんですね。
実際にある、この現状は、ある訳でして、
ここから、
何でも始まる訳ですね。
これって、「なかれき」「およくき」の原理だった!
とは、
本当にびっくりでございます。
わたくしは、糖質制限食の実行から、
アタマのめぐりも、
少しはマシになりました。
さてさて、
さてもの事で御座います、これからで御座います。
すごい人が、この10年来に20年来に、
出て来て下さいました。
間違いないおつきあいを、
真面目にさせてまいります。
要は、要点は、
記紀の原書の位置確認のことで御座います。
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」は、
記紀の原書であり、
記紀よりも上位に位置することを、
はっきりと御認識になれば、
おおよそ、
わたくしたちと基本認識の理解のベースは、
一致します。
それには、
ヲシテ文字の読み書きは、
それは、
絶対条件ともあり充分条件ともあり、
敷居のラインにあります事は、
クリアなさってくださいませ。
アマテルカミのお使いのヲシテ文字です、
読み書きが出来なかったら、どうにも、ヘンで御座います。
・
あっと、
今、思い出しました。
アマテルカミのお祭りは、
宮中三殿で、立派に執りおこなって居られましたので御座いました。
失念しておりましたのが、申し訳ないことで、
御座いました。 ビジネス社さんからの出版です。
また、
あちらこちら、
各地の、かみやしろ(神社)にても、
篤くお祭りも為されております。
このことを、
申し上げねばと思いました。
その、アマテルカミの、本当の偉大さは、
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」で、
初めて理解が及ぶのも、
驚愕の事実で御座います。
アマテルカミのお気持ちに、則して、読み易くしまして書きましたのが、
どうぞ、ご高覧のほどをお願い申し上げます。
「かしこ ところ」と「賢所(けんしょ)」のこと、
以前に、ラジオで、
「けんしょ」の言い方がいいんだと、叫んでいた人がいましたけれど、
それは、根拠がどうだかね?です。
と、言いますのも、
小学生か中学生向きの辞典を根拠にとって言ってるのが、
ラジオのアナウンサーでした。
もうちょっと勉強したらね?
とも思いますが、
中学生向きの簡単辞書を、流行させる世も世なので御座いますね。
それを根拠にしかできないのも、何たる情けなさ、で御座います。
正式には「かしこ ところ」と、
申し上げるのが、当たり前で御座います。
ただ、
恐れ多いので、
控えめな表現にて「賢所(けんしょ)」と、
そう言い表すのが、
女官などの言葉なのですね。
たとえば、
醤油なんて言い方は、控えて、「おむらさき」とか、
というわけですね。
その昔、醤油っていう言い方のない時代の、
奈良朝の時代だったら、「くご びしお」
だったんですね。
「供御 醤」、まあなんと、素敵な言い方で御座いましょうか?
上等の「醤(ひしお)」の、
その上を行く、最上等のもの、
それが、今のお醤油に、ほぼ近いので御座います。
「供御」とは、天皇陛下に献上する最上級の意味です。
わたくしたちは、現代、本当にありがたくも、贅沢な時代に、
生まれ合わせたと、
わたくしは、また感激をしております。
いつも、手軽に安価に、「供御醤」とほぼ同等の調味料を、
ふんだんに使えるので御座います。
ただ、
塩分の取り過ぎには、みなさま、ご注意くださいませ。
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