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2017年3月29日 (水)

初代クニトコタチの時代は、縄文前期中葉のこと。佐賀県の東名遺跡と、福井県の鳥浜貝塚。  追記、山口桂さんの事。

文化および文明の始まり、この閾(しきい)の事。
すなわち、初代クニトコタチの時代の把握は、
考古学での縄文前期中葉のことだと、今のところ推考できます。
Hotumayomitoku
『ホツマツタヱ』などヲシテ文献には、
建国初代のクニトコタチさんの「ムロヤ」から、
文化・文明が起きてきたと、閾(しきい)の事が記されています。
詳しく説明しますと、『ミカサフミ』に、この記述があります。
Muroya
生‐13や、生‐15など と言うのは、『生洲問答』の写本の略称の「生」のことでして、
この写本に記されていた『ミカサフミ ハニマツリのアヤ』に典拠が有ります。
『生州問答』には、この他に、「クニ生み」の質問と答えの話。や、『ホツマツタヱお(を)ノフ(自序文)』などが収録されています。
安永8年(1779)の写本(自筆あとがきの記年)で、和仁估安聡写本です。高島市の野々村直大氏蔵。
このアヤは、活字本での、
『新訂ミカサフミ・フトマニ』(P83)及び、『記紀原書ヲシテ』の下巻(P535)に所収してあります。旧版の『校註ミカサフミ・フトマニ』は、同じくP83です。
諸写本の校合の表示もしてあります。といいましても、このアヤは、1写本だけです。 しかしながら、写本の異本が無いと言う「ゼロ本表記」を確認できます。
また、内容の解説は、『ホツマ辞典』に反映してあります。
            ・          ・
さて、
「ムロヤ」とは何か?
「竪穴式住居」であると、このことは、イコールに結んでよろしいでしょう。
では、「竪穴式住居」の出現は何時か?
それが、佐賀県の東名遺跡(ひがしみょう)にて、
発掘報告がおこなわれまして、詳しいことが判明しつつあります。
「ひがしみょう」とは、知らないと読めない地名です。
Hitonarasu2
             <この書籍が、一番良かったです。
              ヲシテ時代の建国の以前の事ですので、
              強いて、書棚に並べるほどではあるまいか?
              「ヲシテ国学」者としてでは、とも思えます。
              ヲシテ建国時代以降からが、本分になりますから。>
東名遺跡の場所は、
弥生遺跡で有名な、吉野ヶ里遺跡から、
西の方に9kmほど、歩いたら2時間ほど、車でなら20分ぐらい行ったところでした。
こんな近辺で、2大遺跡が発掘されました。佐賀平野は遺跡の宝庫ですね。
Hitonarasu3
 
縄文時代の早期から前期に至るころに、
こんなにも内陸部が海の渚だったのですから、驚きです。
 
さて、不思議な偶然が重なって、東名遺跡が発掘されました。
不思議が幾重にも重なっての、東名遺跡の発見だったと、
『縄文の奇跡! 東名遺跡』(佐賀県教育委員会、雄山閣)の「東名遺跡発見・裏話」(P252)に記されています。
諦め掛けていた時に、若くて元気だったので、小川を一飛びしたことで、この重要な遺跡を発見したそうでした。もし? あの時…、の改想は、幾たびもの事だったようでした。
これも、『ホツマツタヱ』などヲシテ文献の発見の経緯とも、共通しています。『ホツマツタヱ発見物語』ゾクゾクしますので。ぜひお読み願います。発見現場の、その真実・ウラ話がとても面白いです。
 
佐賀平野は、広く広がっています。
東名遺跡の探訪も行きたいところです。
詳しく見てみましょう。吉野ヶ里遺跡から、
西南西に、車で20分ぐらいに東名遺跡があります。
佐賀平野は、広々としています。
でも、ほんの数千年前までは、
海岸線が脊振山の近くまで迫っていました。

脊振山(せぶりやま、意味の近い漢字では〝背〟とも安直に書きかえる人もある)と言えば、栄西禅師のお茶の栽培が、
此処から始まったと伝わります。
あれこれと、想い出も深いのが、
佐賀県の脊振山です。
縄文時代の前期頃、この山麓のそばまで、
遠浅の海が広がって、貝などの海産物が豊かだったようです。
つまり、
文化・文明の開けくる以前の揺籃期が、東名遺跡の時代でした。
すなわち、
この時代は、まだ「竪穴式住居」が建てられていなかったらしいのです。
これは、一つの発見でした。
さて、詳しく述べましょう。
東名遺跡は、
縄文時代の前期まで、今から約7950年前から7350年前ごろ(較正年数、cal. BP)までが良く解かる遺跡です。
ここでは、「竪穴式住居」があれだけ掘ってもまだ未発見だそうです。『縄文の奇跡! 東名遺跡』(佐賀県教育委員会、雄山閣)の「竪穴住居がみつからない!」(P220)に詳しいです。
すなわち、今から7350年前ごろに東名遺跡での生活が放棄されるのは、海面上昇によって水没したからだと結論付けられています。同書籍のP220に詳しいです。
Hitonarasu1
今から7350年前ごろまでは、竪穴式住居が、未発見で、と言うより、まだ普及していなかったと理解すると、なるほどと納得できます。
ヲシテ文献に出ている記述の、
「クニトコタチのムロヤより」
の、文化・文明への展開に向けての揺籃時代の世界が、目の前に眼前と現われた感がします。
 
今から7350年前までは、竪穴式住居が普及していなかったらしいのです。
つまり「ムロヤ」以前の時代です。
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」の正当性がここにも感じられます。
急激な海面上昇と、
約7300年前あたりの鬼界アカホヤ火山の噴火のあとに、
縄文時代の前期の前葉、そして、中葉の時代に移ってきます。
縄文海進の最大ピークの温かく過ごしやすい時代が過ぎて、
寒冷化に赴き始めた時、その時に、我が国の建国が起きてきたわけです。
『ホツマツタヱを読み解く』(池田満、展望社)に記載しましたように、「縄文時代の前期の中葉が、我が国の建国の時代だ。」としました推論は、正鵠を得ているようです。
そこには、人々が得意さの良い能力を合わせて協力してこそ、の、「ニの精神」が起きて来て、さらに「トのヲシヱ」に発展してくるわけです。
この精神的な発達・発展の事情は、『ミカサフミ ワカウタのアヤ』で、やっと解かってまいりました。『よみがえる縄文時代イサナギ・イサナミのこころ ―新発見『ミカサフミ ワカウタノアヤ』アマテルカミが解き明かす―』(池田満、展望社)にて上梓出版いたしました。これ程に長い書題は、おそらく日本一かも知れません。
 
       ∞    ∞    ∞    ∞    ∞
 
さあ、それでは、
ここで、建国当時の世界を見てみたいものですね。
福井県の鳥浜貝塚の遺跡が、また、大きなヒントになります。
田中祐二さんの『縄文のタイムカプセル 鳥浜貝塚』(新泉社)がビジュアルで見やすく良くまとまっています。
Torihama1 
漆の工芸品の高度さや、編み物技術の洗練さを見てとれます。
さて、
調査区域が、それほど広範囲に至っていないこともあって、
竪穴式住居がいつの時代に建てられ始めたのか?
など多くの未解明の部分が残されています。
これからの発掘と解明が楽しみです。
 
念のため「ムロ」の典拠のリストも掲げておきましょう。
Muro1
Muro2
Muro3
Muro4
「ムロヤ」だけではなくて、「イワムロ」も「ウチムロ」 も「ムロツ」も関連語であることが解かります。
佐賀県の東名遺跡で、水没後に、残されなかった時代、
つまり、「ムロヤ」の出現以降の、文化・文明の開闢の閾の以降の時代が、
福井県の鳥浜遺跡にはあるわけです。
うつくしいウルシ(漆)の工芸品も出土しています。
 
また、
その他の遺跡でも、多くの発掘がおこなわれています。
今後が楽しみです。漢字以降の変貌しつくされて自謔的に貶められてきていた、千数百年来の暗雲を吹き飛ばすことが出来ます。
それには、
文献学の『ホツマツタヱ』などヲシテ文献と、
遺跡学の考古学と、両輪が相まってこそです。
で、歴史の真相の解明が成し遂げられます。
漢字以前の真実を解き明かしてくれるわけです。
さて、
私たちの受け持ちの、
そこの、文献学の『ホツマツタヱ』などヲシテ文献で「ヲシテ国学」に総合整備を整えてゆかねばなりません。
変な、直訳で貶めをして、Chinaに魂を売り渡してなるものか!!
と、わたくしは強く思っております。この、私の思いは間違っているのでしょうか??
要するに、直訳で「直訳偽書の秀真伝(しゅうしんでん)」のままに終わらせるのは、
それは、どうにも、イカン事でしょう。 売国はダメだと深く思う訳で御座います。。
『直訳がどうして? 「売国」になるのか!』の、システム的な成り行きに付いても、
理解が行き付か無い人も多いです。ヲシテ文字も読めなくっちゃ、
解かろうはずもない事で御座います。ヲシテ時代の原文に、接してみたこと無かったら、解かろうはずもない事で御座います。
貶めしようと、手練手管で、待ち構えている連中には、
実感・直感から「キモ(肝臓やらなんやら)」にこたえて来て、
本心からの実感が無いと、
上手いこと騙されちゃいます。
あれらは、お上手ですからね。
付け入ったり、泣き落としたり、脅しめかしたり、世間体を言ってたぶらかしたり、…  ETC.
とかく、お上手なので御座います。
これは、伊藤若冲じゃないですが、千歳具眼のヒトを待つ事から始めるのが必要なのかも知れません。
私の感じますに、伊藤若冲は生きている時代での生前の人気に、
本質が伴っていない事を、見やっていたのではあるまいか?
つまり、
ケバケバしさとか、あでやかさの新具現化など、
表面だけでの持て囃されで、何が面白く、何が新機軸で、どう素晴らしいのか?
まったく、ギアが噛み合っていないいないもどかしさを、
日々、朝夕、胃がキリキリと来るぐらい、
夜中もうなされてしょうがない程に、切羽詰まって、
苦しんでいたのだと思います。
この、大きな世界観の把握の革新が、
どうして解かって貰えないのだ!!!
ここなんですね。
伊藤若冲の言いたいことの「キモ」はです。
ジョー・プライスさんのご夫婦は、千歳具眼の士ですね。
良かった、良かった、と、
本当にわたくしも思います。
その事と、
まさに、同様の同意義、同意味にて、
それが、うれしい事に、もう、ヲシテにも、萌芽が幾つも出て来てくれています! つまり、『古事記』のひどさが解かるお方様が! ですね。
               ・
先日も、
http://artscape.jp/blogs/blog3/1603/
国籍にも、ハイレベルではあまり目利きは左右も無いようです。
クリスティーズでやり始めたころ、
わが国の美しさ、日本美術の目利きに付いて、
本当に、国籍など関係ないと実感したと言います。
要するに、日本人だから日本美術の評価が出来る訳ではないのが、
判然と、目の前に突き付けられたわけですね。
もう一歩踏み込んで意訳したら、「あんた、こんな事も解からないの? 本当に日本人なの?」でしょうね。
そう言えば、「I love you」の翻訳に付いて、
夏目漱石は「吾輩は 汝を 愛して好きだ」の訳を、
アホか!? と言ったそうです。
それでどうするか?
「今日のお月様は綺麗だね」が、適切であろうと。
これが、本当の翻訳ですね。
機械翻訳は、なんだかねー 、が充満しています。一杯です。
まあ、わたくしなどがネットでの外国文献などちょっと見するには、機械翻訳はかなり有効ですが、それは、咄嗟の簡易な使用に限られての有用性ですね。
さて、
さて、
クリスティーズに入ってから、
本格的に「日本美術」に目覚めたのが、
山口桂さんでした。
それから、山口桂さんの判断と行動が偉い所だと思います。猛勉強をふたたび開始して、
自分の気持ちからの積極的な動き出しです。
これが、さらにまた重要で大切な個所ですね。
そうして、また、基礎としては、
幼少期のスパルタ教育も、役立ったようでした。
今、山口桂さんの事、その今が有るという事で御座います。
ジョ‐・プライスさんの事で思い出しました。
今朝か?(3月30日、女房が新聞をバラバラにしてしまったので、確認できずでした)の「日経新聞」の「私の履歴書」で、
エツコ&ジョー・プライスのコレクションのBリストは、
日本に戻したいと、その意向が素晴らしい結論だと思いました。
ご夫婦が、とっても、同一価値観なのですね。
悦子さんのお人柄も美しく清らかです。
通訳として知り合ったはじめ、「ドーント、タッチ、マイ、バディ(ボディ)」と、
交通量の激しい道路での安全へのエスコートを、咄嗟に拒絶したのが、
今でも、思い出の笑い種だそうです。
うつくしいです。
人生は結局のところ、価値観の共有的な思いに、其処に行き着き至るのでしょうね。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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