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2016年9月 3日 (土)

国家意識のこと。「ヲシテ国学」の意味合いのこと。 追記、長島の一向一揆のこと。 『国書総目録』の事も追記しました。

国学の流れの事、あらためて、説明して欲しいと、
そう言われました。

総じていえば、わたくし達「日本の人達」は、
余りにもご気楽な、数千年間を過ごしてきていたと、
そう、言う事に尽きるかと思います。
わが国の幸せが、暢気(のんき)を作って来ていたのです。
 
 
江戸時代の初めごろから、
やっと、我が国とは??  と、
一般にも、真剣に問われるような事態に遭遇したようにも思います。
其れまでは、ほんの一部の貴族階級だけが、
真剣に、この問題に直面してきていました。


ちょうど、江戸時代の初めごろから、
世界の同時発展性を、わたくしは感じていますが、
http://www.geocities.jp/bhermes001/encyclopedism.html
知の囲い込みの時代から、一般化してゆく、時代の潮流変化です。
 
わたくしは、
グローバルに発展の事が、紀元前のずっと古い時代から起きていたと思うのです。
江戸時代の初めには、木版の活版印刷が、我が国においても導入されています。
印刷技術の革新は、
わが国にもいち早く反映していることが、
言えます。
http://www.printing-museum.org/communication/column/pdf/column_12.pdf


その結果、
一般の市民にも、我が国の歴史の基礎文献が、
それを、
目の当たりに見聞きすることが出来るようになりました。
やっと、
江戸時代の初めごろですから、
今から、400年ほど前のことでした。
だって、それまでは、一般の市民レベルで我が国の歴史の基本書籍について、
目にすることも、まずは、あり得ない事でした。

そこから、慶長勅版の『日本書紀』の出版から、
徐々に、わが国の歴史についての考察にも,
一般のわたくし達が参加できるようになりました。

要するに、わたくし達・庶民は食べてゆくだけ生活をしてゆくだけ、
そして、国家のことを考える事には、あなた任せで居られたのでした。
それは、幸せな事だったのです。ある意味におきまして。
良い国だったのです。
ですから、国家の事についてどう考えてゆくかなんてことは、
数千年来に於いて、考えの端にも掛からない事でした。

江戸時代になって、ようよう、
時代の潮流は変わり目を迎えます。
印刷技術の向上も、大きく寄与したことでした。
当時、
極めて限られた憂国の志士によって、
わが国の進みゆくべき道の模索は試行錯誤の試みを
思案してゆく状況が起きました。

極めて限られた憂国の志士のうち、
契沖は、『万葉代匠記』・『和字正濫抄』をあらわします。
なかでも『和字正濫抄』は、歴史的仮名使いの発端になります。
国語学の先達です。

そのうち、一般人の憂国の志士の内に、
『日本書紀』の研究も、進める人が出て来ます。
平安時代に現われた天才の、一条兼良の優れた研究の、
『日本書紀纂疏(にほん しょき さんそ)』の 後に、
さらに進められる天才は、貴族階級には、ずっと現われませんでした。
一条兼良(いちじょう かねら、かねよし)は、不出世の優れた人物でした。
其処を打ち破ったのが、谷川士清(たにがわ ことすが)です。
間口を広くしてこそ、優れた研究が出て来るものです。
http://opac.lib.mie-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BN01815446?hit=-1&caller=xc-search
そのひとつの集大成です。
物事の、大切さを覚った、その、愛国心からして、
有無も無く、突き進んだ激動の一族係累をすべてかけた、
わたくしなどは、及びも寄らない愛国者魂です。
谷川士清は、本当の意味ですごいです。
わが身も、そして、一族係累ことごとくを掛けて、
それは、すさまじいです。ここに、わたくしは先師と仰いでいます。
後になって、
『古事記』をやってたような人とは、格段の相違が有ります。
わたくしたちの、クニ・国家・民族を思う志の高さに於いてです。
この意味において、谷川士清は偉いです。

『古事記』にも、研究をする人も出て来ますが、
そもそもの文献の価値自体に『古事記』は、
これから、更に疑問を抱かれてゆく事でしょう。
このため、有意な解説を私がするわけにも参りません。
何故ならば、賀茂真淵から破門されても、
悔い改めないのですから、
それは、目的が違うんですね。
やっと、此処のところに、わたくしも、気が付きました。
賀茂真淵も、やっぱり偉いです。
遠く、国家・国民・民族の永久(とわ)なる幸せを、
此処を目的としているからです。

目的の、そのところが、何処(いずこ)にあるのか?  です。 
肝心要の判定の、その、分水嶺です。


ところがです、
さて、
さて、
今から50年前に、
『古事記』『日本書紀』の原書の、
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」が発見されます。
それは、『古事記』『日本書紀』の原書としての、発見です。
松本善之助先生が、
神武天皇紀の文章の『ホツマ ツタヱ』との原文対比比較をして、
明瞭に記紀の原書であることを発見されました。
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」の発見は、
岩波書店の『国書総目録』の第7巻の「ふ-よ」の、
発刊によって、一般にも目にも見て取れるようになりました。
昭和45年(1970年)が、『国書総目録』の第7巻の「ふ-よ」の発売年でした。

『国書総目録』(岩波書店)と言っても、知らない人が多い事に、
気が付きました。
ちょっと、解説します。
明治以前に有った書籍の総覧をしようと、
大きなプロジェクトが始まりました。
(正確には慶応3年以前の書籍の全部について)
これを、岩波書店の創立50年企画のビッグ・プロジェクト、
国書総目録プロジェクトと呼ぶにふさわしいものでしょう。
そこに、
『ホツマツタヱ』の写本も、引っ掛かることになりました。
やっと、現代印刷物にも載ったのですね。
日の目を見る、やっとの一歩の、
成り行きです。
 
この辺りの事情を、ご説明いたします。
       ・      ・      ・
そもそもが、
わが国におきましては、
著作が多いので御座います。文化・文明の大きさのその事でしょうか?
平安時代には、『源氏物語』や『枕草子』などなど、
現代にも活き活きと語り継がれる名作も輩出しています。
それらを、網羅すべく、江戸時代の中期に塙保己一さんが、
再刻の出版の事業をおおよそ6割ほども、私財をなげうって完遂なさって下さいました。
ですが、
まだまだ、
『群書類従』に収録されていない、多くの書籍が残っていました。
たとえば、
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」も、そのひとつです。
つまりは、
わが国の文化・文明が大きいので、
とても、塙保己一さんおひとりの財力・知力をもってしても、
網羅出来なかったのでした。
岩波書店の創立50年の記念事業として「国書総目録プロジェクト」は、
注目に値します。
さてさて、
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」が、そこに、どういう風に、
ピック・アップされたか?
が、わたくし達の注目点です。
Kokusyosoumokuroku01
国書総目録の7巻目です。
ここに『ホツマツタヱ』が初めて、
おおやけに、現代の印刷物に記載がされました。
Kokusyosoumokuroku02
        見開きです、7巻目の「ふーよ」です。
Kokusyosoumokuroku03_2
ここが、「ホツマツタエ」の表記個所です。
小さいので、見辛いので大きくします。
Kokusyosoumokuroku1
「内閣」とは、国立公文書館の所蔵の「内閣文庫」の略名記です。
これは、日本国民の成人でしたら誰でも閲覧可能です。
やっと、
昭和45年に、その『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」の
写本の在り処だけが、おおやけに公表されたわけです。
ここ『国書総目録』(岩波書店)に!!!
ですが、この、2行の記事だけです。
書名の記述と保管場所の記載だけです。
この記載だけで、だれが、国書の総元締めの原書の位置にと、その価値が有るのか?  1億人にも、100億人にも誰も解かる筈もない状況です。
そこを、価値の正しさを見極められた、松本善之助先生は、やっぱり、お偉い!!  のその一言です。
また、
「竹柏」とは、「竹柏園文庫」のことで、
故・佐々木信綱さんの蔵書の名前です。
現在は、天理図書館に、所蔵されています。
この、現在の所在を発見して頂いたのが、
大阪の平岡憲人さんでした。これも、現代での大発見のひとつです。
 
どうでしょうか?
『国書総目録』の記載事項の2行を見て、
『ホツマ ツタヱ』が、
記紀の原書である事実、
つまり、『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」が、
『古事記』『日本書紀』の原書である、この重大な事実について、
はたして? 百万人の内にたったひとりでも、
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」は大切なものだと、
気が付く人がありますでしょうか?

こういう意味におきまして、
おおやけに、文献の所在は解かるのでしたが、
でも、だれも、その『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」の価値は、
だれにも、さっぱり解からなかったのが、
本当に実情です。


そこに、
初めて解き明かしたのが、松本善之助先生です。
だから、
だから、松本善之助先生はとっても偉いのです!!

ちなみに、
『国書総目録』の、7巻目の奥付けもUPします。
Kokusyosoumokuroku2
わたくしが、持っているのは第二刷りですが、
第一刷りの初版は、昭和45年(1970)の事でした。
ちなみに、昭和45年は、わたくしの15歳の時でして、
それから2年の後に、わたくしは『ホツマツタヱ』と遭遇します。
この時期に、『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」の専門家は、
松本善之助先生のたったおひとりだけです! 全国広しといえど、です!
自分で研究を進めてゆくしか、他に、道はありません。
そうして、もう、今年には44年が経ちました。
間違った道を歩んだとは、今でも思ってはおりません。

さてさて、
極めて仮定の話になりますが、
もしも、
わたくしが両親の反対を押し切って、
どこか、つまりは、
皇學館か、国学院かの、
大学にいっていたら、
自由闊達な研究成果を収めることは、
100%無かったと申せましょう。
母からは、何回も、それで良いのか?
と、念押しに訊かれました。
結構、意志は強いので、一端決めたら、
容易に変更しないのが私です。


松本善之助先生からは、
大学の中から直せと、言われていましたが、
40年前の当時は、右も左も解からない、ひよっこ学生です。
とても、そんな学識も無くて、
つぶれに成っちゃてたことでしょうね。
思うに、歴史の過去の追予想の事からしますと、
そんなことで御座います。

この意味でも、最も、まともな道筋を歩んできたと、
今でもそう、掛け値なしに思っております。
 
 
思い出しますと、10年ほども前の事でしたが、
某大学で、講座を作ろうと試みた事が有りましたが、
その際には、あともうおひとり、参加者が不足で話が流れました。

 
さてもさても、
今でも、です。
まだまだ世は、そう言った段階にほど近いです。
出来るだけの発信は、
わたくしは、してきている自負はありますが… 。
 
国立公文書館に行って、
『ホツマツタヱ』の小笠原写本を見てみて下さい。
巻次の順番が、未だにもってバラバラです!!
世の認識は、そのような程度です。
その世の中の無関心の内に、仕方なく、研究は進めてまいりました。
こんな大切な事なのに…  、  で、
誰も真面目にやらないので、仕方なく、わたくしは真面目に取り組んできました。

『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」の発見と現代研究の進展によって、
「国学」
の定義も、これから大きく変わってゆく事が予想されます。
なにしろ、
『古事記』『日本書紀』の原書の発見と研究です。
そして、我が国に独自の「ヲシテ文字」の発見です。
ヲシテ時代中期に花開いた「5・7音韻」の正式な文体の発見です。
従前の「国学」の概念で把握できるはずもない事でしょう。
根底とする文献に変更が大きく発生しましたので、
パラダイム・シフトの起きるのが当然です。
記紀、『古事記』『日本書紀』から、
『ホツマ ツタヱ』など「ヲシテ文献」への変更、です。
そういった意味から「ヲシテ国学」として、
提唱を始めています。
パラダイム・シフトに属する大変革ですから、
『古事記』『日本書紀』から「ヲシテ文献」への、
大変革です。
新たに、大学も作り直すしか他に方法も無いのです。 

とはいえ、
啓蒙には困難が付きまといます。
直訳して、ヲシテ時代の言葉を、
たとえば「ヰ・クラ、ム・ワタ」哲学用語を「五臓六腑」に直訳して広めたら、
それは、江戸時代の偽書に貶めていることになります。
大きな枠組みからの理解を、セットでしない限り、
猿芝居になってしまいます。
此処が、とても難しいところです。
  1、『古事記』『日本書紀』の原書の発見と研究です。
  2、我が国に独自の「ヲシテ文字」の発見です。
  3、ヲシテ時代中期に花開いた「5・7音韻」の正式な文体の発見です。
この3点セットの前提が、基礎理解のどうしても必要な条件です。
 
これから、未来に向けては、
あなた任せでは、居られない時代になってまいります。
ボーダーラインがますます低くなってきて、
わたくしたちが、毎日外国と接するのです。
そのためには、我が国・わが民族とは何か?
その把握を真面目にしておかねば、おかしくなってしまいます。
そのため、
今、特に「ヲシテ国学」の必要性が迫って求められます。 



 

凄惨と言う言葉が、
この頃、ニュースを見聞きしますと、
特に、思い浮かびます。
さても、一向一揆の鎮圧の惨状はすさまじい事で御座いましたでしょう。
Photo
   <多度山が望み見れます。
          願證寺です>
Photo_2

空気感が、願證寺には、ありますね。

わたくしの、所要のその折に、
木曽川の長島の一向一揆の跡、その現場に、
うかがってみました。
多度山も見えて美しい場所です。
Photo_3

Photo_4

涙ながらにも、どうしても、
涙腺は開いたままです。
どうしてこんなにも、すさまじい戦闘がおこなわれることになったか?
つまるところ、国家をどう考えてゆくか?その命題に、
わたくしたちが、本当の庶民も実践の参加が強制的に枠組みにはめられた、
その時代のようです。
もう、斜に見ているような事は、有り得ない時代のようです。
と、わたくしは思っていますが?
みなさまには、如何(いかが)お考えで御座いましょうか?

長島城は、その跡地は、
残暑の内にも、海辺にもほど近くて、ほのかな爽やかさが有りました。
 
潮入れ合いの、今では運河には、サクラがのソメイヨシノが、
植わっていました。
Kuromtu1
 
今では、良い日よけです、助かります。
 
そんなことは、どうして? 混乱を根絶出来得るのか?
国家の事、そして、その文明の本当の貴い理念について、
正当に説明の出来得るように、
と、ここが、一番の重要点の要だと、
そう、私は思っております。
 
 
 つまり、
国家の枢要に、この一大事の事、
あやしげな思いが混ざると、
後の世に、どれほどの、子孫の人達に、
迷いが生じて、それが、一向一揆のような不幸にと、も。
そのような事が有っては断じてならない。
というのが、
そもそもの、40有余年来のわたくしの根本の心情です。
解かるお人には解かって貰えました。有り難い事で御座います。
わたくしは、もっと先に進んでゆく、その仕事を、
背負っていると、そう思って来ております。
まだまだ、
背負う荷物の重さは減りませんことで御座います。
ひとつ、荷下ろししたら、
また、ひとつかふたつ、背負う荷物が増えて来るのです。
それも、グルグルの成り行きの事で御座います。

また、
さすが、専門家です。
写真は、
Ikedamituru
女房は遠視気味で遠いところが良く見えます。
老眼になって来てます。
わたくしは、近視で近いところが良く見えます。
二人合わせると、うまくゆくと、いつも笑っています。
ご気楽夫婦です、破れ鍋に綴じ蓋と、
そういうたぐいの事で御座いましょう。

 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 

 

2016年8月29日 (月)

京都の会場が定まりました。

お寺で「ヲシテ」?  と、
疑問に思われる向きもありましょうが、
愛国者精神の基本姿勢で一致しているのです。
Kyoutowosite1_2
9月には、開催しません。
次回の日程は、10月29日です。
11月から、第三土曜日の定期の開催になります
          ・         ・
日蓮さんは『立正安国論』で、
国家の安寧を強く願いました。
思えば、松本善之助先生の菩提寺も日蓮宗です。
そう言えば、松本先生から、日蓮さんの事を書けと、
言われても居りました。
実現は出来ていませんが、その思いはあります。
そうなのです、
縁(えにし)は、不思議につながっていました。
愛国者精神の基本姿勢で、よくよく考えたら一致でした。
また、思い起こせば、
日蓮さんは、最晩期に、病を押して富士山に行った帰りに、
富士山御師の本庄家にも行って居ました。
そこで、愛国者精神の共感から、
当時の当主の本庄采女(ほんじょう うねめ)さんは、
弟が住職をしている寺を、日蓮宗に改宗させた、
経緯もありました。
これも、愛国者精神からの成り行きです。
当時、お寺の関係のお方にも、愛国者精神は、
充実してみなぎっていたのですね。
そのような訳から、
日蓮さん所縁(ゆかり)のお寺で、
「ヲシテ」の講義も、
愛国者精神からの成り行きと、
そう理解をして頂けますでしょうか?
コモリカミの瀬見の小川の、糺の森にも、すぐ近くです。 
 
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