2019年4月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        

最近の記事

おすすめ

最近のコメント

フォト

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« 「ホツマ」33アヤ、疫病の大流行の時代。どうなさったか? 人皇の10代の崇神天皇さまは? | トップページ | 我が国の、本当の基礎を定礎を定めること。ヲシテ国学、記紀の原書の事。 »

2015年6月28日 (日)

京都の会場変更の事。 武野紹鴎さんの大黒庵のいわれの元。  「ヲシテ国学 初めから」53話をUPしました。

京都での、ヲシテ講習会は、盛会でした。(6月27日)
会場が、次回から別の所に変更されます。(9月12日)
次回からは、
さらに、
閑静でご由緒も深い、雰囲気のある場所になります。
お問い合わせ下さいませ。
            ・
 
そんな事もあって、千利休の師匠であった、
武野紹鴎さんの、その、大黒庵の京都の邸宅跡が、
前会場の近くにありますので、参拝に行って参りました。
Kikusui2_2
         <説明の文面です。なかなかの名文ですね。
           700年の長寿を…、云々が、
           名水の「菊水」の井戸だったそうです>
Kikusui
 
わび茶を、完成させ、「日本回帰」に功績著しかったのは、
実に、武野紹鴎さん(たけの じょうおう、しょうおう)だったようです。
ご名跡を継いでおられる、ご子孫筋の武野宗延(むねのぶ)さんのご著書『利休の師 武野紹鴎』(宮帯出版)に感動しまして、拝眉の機会を先日も賜ったところでした。
武野宗延さんは、単なる先祖自慢ではなくて、「日本文明」の正しい理解普及について、こころざしを強くなさっておられます。
我が国を、とても大切に思ってられる訳ですね。
お会いして感じましたことの一つに、私憤と、公憤との、違いが誤解されては困るという思いが、武野宗延さんには強くあってのことと拝察いたしました。 わたくしも、同様の思いが強う御座いますから、良く解るわけで御座います。
さて、室町時代。
武野紹鴎さんの京都の旧宅は、夷社のすぐそばだったので、
夷三郎のこと、それで、夷大黒から「大黒庵」と称したそうでした。
今からしてみましたら、
『ミカサフミ ワカウタのアヤ』のその深い意味合いの事を、武野紹鴎さんにも、解って貰えたら良かった事だったのに、と、昨日も大黒庵跡の石碑の前で思わず手を合わせて居りました。ワカヒメさまの事が解らずに、クシヒコさんの事が解らずに、「夷大黒」の大黒庵ではさびしすぎると言うもので御座いますねですね。今ならばこそには、明確に判明した事事で御座いますが。  
それにしましても、武野宗延さんに伝わる角釜の尾垂れの大黒釜の、「す」の虫食い状の姿は、「わひ」(ワビ・侘び)の、その一つの大きな具現化のように思います。
H25429_2
武野宗延さんのご著書をご参照ください。
 
 
             ・           ・
 
 10代のミマキのキミ(崇神天皇)の後半部分です。ヲシテ時代の晩期の雰囲気が解ります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

« 「ホツマ」33アヤ、疫病の大流行の時代。どうなさったか? 人皇の10代の崇神天皇さまは? | トップページ | 我が国の、本当の基礎を定礎を定めること。ヲシテ国学、記紀の原書の事。 »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 「ホツマ」33アヤ、疫病の大流行の時代。どうなさったか? 人皇の10代の崇神天皇さまは? | トップページ | 我が国の、本当の基礎を定礎を定めること。ヲシテ国学、記紀の原書の事。 »