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2012年10月 4日 (木)

漢字国字化時代の始まりの頃に付きまして。 『ホツマ』などヲシテ時代の終焉の動乱の時代を見てみましょう。 その3。  及び 『「Gゼロ」後の世界』イアン・ブレマー

『日本書紀』以前の時代は、ヲシテ文献の『ホツマツタヱ』が成立した時まででも長い話です。 

漢字国字化時代の始まりの頃に付きまして。 その2 までお読み下さいましたら、我が国の尊さは、漢字国字化時代以前にこそ厳然としてあった事がお分かり頂けるかと思います。

さらに、16代の仁徳天皇から、『日本書紀』完成奏上の720年までは、ざっと400年ほどの年月があります。16代から、44代まで、相当な長年月です。

16 仁徳(にんとく)天皇
17 履中(りちゅう)天皇
18 反正(はんぜい)天皇
19 允恭(いんぎょう)天皇
20 安康(あんこう)天皇
21 雄略(ゆうりゃく)天皇
22 清寧(せいねい)天皇
23 顯宗(けんぞう)天皇
24 仁賢(にんけん)天皇
25 武烈(ぶれつ)天皇
26 繼體(けいたい)天皇
27 安閑(あんかん)天皇
28 宣化(せんか)天皇
29 欽明(きんめい)天皇
30 敏達(びだつ)天皇
31 用明(ようめい)天皇
32 崇峻(すしゅん)天皇
33 推古(すいこ)天皇
34 舒明(じょめい)天皇
35 皇極(こうぎょく)天皇
36 孝徳(こうとく)天皇
37 齊明(さいめい)天皇
38 天智(てんじ)天皇
39 弘文(こうぶん)天皇
40 天武(てんむ)天皇
41 持統(じとう)天皇
42 文武(もんぶ)天皇
43 元明(げんめい)天皇
44 元正(げんせい)天皇

ゆっくり解説したいトコですが、後に纏める書籍の楽しみにとっときまして、ここでは、特別に大きな出来事だけピックアップ致します。

          ・       ・       ・

17代、履中天皇

 住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)を殺す。

20代、安康天皇

 後継争いで、皇太子を滅ぼす。

 眉輪王に弑逆(殺される)される。

21代、雄略天皇

 眉輪王、黒彦皇子、市辺押磐皇子など殺される。

 新羅への援助の軍を使わして、高麗を撃つ。(雄略8年、464)

 新羅を撃つ。(雄略9年、465)

 高麗が、百済を撃ちて殆んど滅す。(雄略20年、476)

 任那の一部を、百済に与えて立て直しをさせる。(雄略21年、477)

 百済に援軍を派遣する。(雄略23年、479)

 この他にも、誅殺事件多し。

22代、清寧天皇

 星川皇子の誅殺。

23代、顕宗天皇

 市辺押磐皇子の子、清寧天皇に皇子無きに拠って招かれる。

 任那での、紀生磐宿禰の乱。(顕宗天皇3年、487)

25代、武烈天皇

 暴虐の為せる業の記述多し。真偽の程はいかなるか?

26代、継体天皇

 10代近くにも渡った、血で血を洗う混乱のため、お世継に立つ人がなくなった。

 応神天皇の5世の孫を迎えることになった。父は、彦主人王。母は、垂仁天皇の7世の孫の振媛。遠く、越前の三国から迎える。

 継体天皇の即位なさって、20年にして、大和盆地に遷都される。

 韓半島への派兵、九州の磐井の乱も起きる。

28代、宣化天皇

 任那への援助の派兵

29代、欽明天皇

 「『帝王本紀』に多有古字」の文章。この時代にはヲシテ文字の残簡はあったかも知れない。 (欽明天皇2年、541)

 韓半島への派兵。

 仏教の公伝。(帰化人の渡来に伴っての、仏教私伝は古くからあった)

 難波(なにわ)の堀江に仏像を流し棄て、寺(伽藍)を焼く。

 任那の滅亡(欽明天皇23年、562)

30代、敏達天皇

 韓半島への派兵。

 仏殿を焼き、残る仏像は難波(なにわ)の堀江流し棄てる。

31代、用明天皇

 仏法を主に尊ぶ。

 三輪氏(三輪君逆、さかう)を弑逆する。

 仏教受容の推進の間に、2年で崩御。(9月即位、翌年4月に崩御)

32代、崇峻天皇

 後継争いの混乱で、物部守屋が撃たれ物部氏が滅亡。穴穂部皇子、宅部皇子殺害される。廐戸皇子(聖徳太子)の白膠木の四天王の像のこと。

 蘇我馬子による、崇峻天皇の弑逆(殺害)事件。(崇峻天皇5年、592)

33代、推古天皇

 混乱が余りにもひどくて、敏達天皇の皇后の額田部皇女が、御位(天皇位)を継いで推古天皇と呼ばれてゆきます。額田部皇女は欽明天皇の皇女でした。推古天皇のご即位は、女帝としての天地開闢以来の初めてのことでした。 国史を改竄する必要が大きくあった時代です。仏教の導入を図る際に、大きな動乱が生じました。推古天皇の第二子に廐戸皇子が生まれていました。母上を立てるのは、推古天皇は、風除けの看板の意味も大きかったのかも知れません。 仏教導入派が決定的勝利を遂げて、滅ぼした物部氏の財産を自由に使うことが出来たのでした。四天王寺など、巨大な寺を造営してます。大きな変化には隠れ蓑も必要なのかも知れません。

 任那の再興のための派兵。

 憲法(うつくしきのり)の17条を作成。

 小野妹子を隋(唐)へ派遣する。

 『天皇記』『国記』など「本記」を録(記)す。(推古天皇28年、620)

 廐戸皇子ご逝去。(推古天皇29年、622)

35代、皇極天皇

 山背大兄王が蘇我入鹿に攻め滅ぼされる。蘇我入鹿を殺戮する。 蘇我蝦夷の誅殺に関わり、『天皇記』『国記』が焼かれる。一部を船史の恵尺が救って中大兄皇子に捧ぐ。

36代、孝徳天皇

 古人大兄皇子が謀反を起こそうとして(?)殺害される。

 国家主権を大きくする「大化の改新」。

37代、斉明天皇(皇極天皇の重祚)

 有間皇子が謀反を起こそうとして(?)殺害される。

 阿倍比羅夫の粛慎、蝦夷遠征。

 百済の事実上の滅亡。(斉明天皇6年、660)

38代、天智天皇

 百済の復興のために、新羅への派兵・交戦、対唐戦争をして大敗する。(白村江、天智天皇2年、663)

 百済の遺臣、遺民たちの大挙しての来朝帰化。

40代、天武天皇

 天智天皇の皇子の弘文天皇との、勢力をニ分する戦争。勝利した大海人皇子が、即位して後に天武天皇と呼ばれる。

                ・

ここ迄きましたら、もう、誰がどう言っても「歴史時代」ですね。

ヲシテ文献の発見研究で、やっと解りましたことは、隣国との接触が濃厚になればなるほど、我が国は混乱して疲弊の事々に陥っていたのです。

隣人が大変だから助けてくれー、と言うことを、

人の良い我が国の国柄から、まじめに受け取って、ひどい目にばかりあわされてきていたのですね。ヲシテ文献の記述終わりからの時代を見ると、よくよく、この事が判ります。漢字国字化時代になっていってからは、結局のところ、血を血で洗う動乱が収まらないのでした。 それは、ヲシテ文献の忘れ去られの事があったためと、私は考えます。

さて、それが、何時の時点か?  ですが、徐々にスーッと忘れ去られるような、そんな感覚ではなかったか?  兎に角も、ヲシテ文献理解は、難解です。「語彙の索引」が自由自在に使えるようになっての、今にしても、かれこれ何十年と呻吟苦難に喘いでも、これほどの程度にしか、まだ以って解明が進んでいません。

漢字国字化時代が、自然とやってくるのも、段々と解るような気がしてきました。

          ・              ・

なにはともあれ、

我が国の漢字国字化時代以前の、ヲシテ時代こそが大文明の立派なクニであることだけは、わたくしの言える結論で御座います。

特に、カミヨが素晴らしく、アマテルカミの尊さです。さらに、アマテルカミが常に尊敬して居られた初代クニトコタチさんのとてつもなく尊い事です。

現代になって、ますます混迷を深めてゆく世界に、我が国とは?  その根底を、クニトコタチさんの高貴さに拠って見つめ直す必要がある、と、私は考えますのですね。

                 ・

また、

世界の今後の趨勢に関して、

『「Gゼロ後」の世界』(イアン・ブレマー、北沢格訳、日経新聞社)

が面白いのでお勧めします。

過去もそうでした、1600年ほど前、1300年ほど前、

大きな転換期は、視点を広くしてみないと路線を誤ってしまいます。

あとがきの「謝辞」で、イアン・ブレマーさんは言ってます。

「たいていの本は、小論文で十分。たいていの小論文は、ブログで十分。たいていのブログは、ツイィターで十分。そして、たいていのツイィターは、そもそもツイートするほどの価値はない。

昨今、本を書くというのは、期待では収まらない行為だ  ―それだけ価値あるものが求められるからだ」

ドキッとします。かくあらねばと、あらためて心してます。

わたくしは、読者を裏切っていないと … 、  過去についても、そしてこれからも   …  …  …  と。

ヲシテ文献の場合は、数年の内にどうなるか?  と言うようなものでは、無いように思います。長い年月をかけて、徐々に常識に再認識を迫るものですから、喫緊には、解り解明できたことだけは、広く理解者を求めることこそ重要なためです。それには、より良い格式にだけは気を使うことがどうしても必要です。また、此処に気がついてくださりましたお方には、将来において、世間の賞賛の事が為されることと思います。

                                           /

青山繁晴さんが興味ふかい話をしてくれています。

http://www.youtube.com/watch?v=WJrnzgtjcfM

竹島問題のこと、下記アドレスをご覧ください。

http://www.youtube.com/watch?v=bW7BxpUkCoM&feature=related

政府がもっとやるべき仕事だと思いますが  …  。

             ∞     ∞     ∞

直訳誤訳の困りものの人達の行為に対しまして、間違った方向はマイナスですから、逆方向です。

ひどい人たちにつきましては直訳偽書の「秀真伝(しゅうしんでん)」

として、表現をしておきますと解り易いかと考えました。売国のレベルだと言うと、言い過ぎでしょうか? ねずみ男の様だと言うと、ぴったしかも知れません。

ヲシテ文献の読み進め方は、こちらを参照してください。

例として、「タツ」の事の解き明かしはこちら。

根拠のことなどは、こちら。

     ∞      ∞

ご声援くださるお方は、クリックを! ブログ・ランキングに投票をお願い致します。

本当の意味での、日本の独立は縄文遡及で!

           ・

古史古伝、は「偽書」です。  お間違えなく!

「秀真伝」も「偽書」の一種です。

「秀真伝(しゅうしん でん)」は、ヲシテ時代の人名を

漢字表記してるので、スグ分かります。  お間違えなく!

せっかく見つけた、漢字以前の高度な縄文日本の文明、

なのに、外国文化の色眼鏡で貶めて見ようとする、構造的な間違いです。 偽書ですね、気持ち悪いですね。

共に、即、廃棄してください!  捨ててくださいね。

偽書運動には、終末を迎えさせなくてはなりません!

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2012年10月 2日 (火)

漢字国字化時代の始まりの頃に付きまして。 『ホツマ』などヲシテ時代の終焉の動乱の時代を見てみましょう。 その2

あんまりにも、長すぎるので、分割しました。

                 ・

40代の天武天皇の10年(681)3月4日は西暦の682年です。前回の話の終わっているのは15代摂政の神功皇后ですから、西暦では200年と一応なってます。この頃には相当に紀年の引き伸ばしがあったと見れますので、大体の理解としておくほうが良いかと思います。この間にあった動乱について、大きなものだけでも、見ておくと、漢字国字化時代になってゆく時代背景が少しは理解しやすいと思います。

           ・            ・

此処からは時代列記にしましょう。

15 摂政、神功皇后

 1, 麛坂王(かごさかおう)と忍熊王の反乱

   爰伐新羅之明年(元年)春二月、皇后領群卿及百寮、移于穴門豐浦宮。卽收天皇之喪、從海路以向京。時麛坂王・忍熊王、聞天皇崩、亦皇后西征、幷皇子新生、而密謀之曰、今皇后有子。群臣皆從焉。必共議之立幼主。吾等何以兄從弟乎。乃詳爲天皇作陵、詣播磨興山陵於赤石。仍編船絚于淡路嶋、運其嶋石而造之。則毎人令取兵、而待皇后。於是、犬上君祖倉見別與吉師祖五十狹茅宿禰、共隸于麛坂王。因以、爲將軍令興東國兵。時麛坂王・忍熊王、共出菟餓野、而祈狩之曰、祈狩、此云于氣比餓利。若有成事、必獲良獸也。二王各居假庪。赤猪忽出之登假庪。咋麛坂王而殺焉。軍士悉慄也。忍熊王謂倉見別曰、是事大怪也。於此不可待敵。則引軍更返、屯於住吉。時皇后聞忍熊王起師以待之、命武內宿禰、懷皇子、横出南海、泊于紀伊水門。皇后之船、直指難波。

この後に、諸事あって、忍熊王は誅殺されます。麛坂王も忍熊王も系譜には、今現在にも疑問の声が寄せられています。

 2, 韓半島の内乱に巻き込まれる

当時の韓半島は諸国間の争いの最中でした。気の良い「日本」の力をどう取り込むかが争われていたようです。お人好しの「日本」は、上手く利用されていた感じです。

   卌九(49)年春三月、以荒田別・鹿我別爲將軍。則與久氐等、共勒兵而度之、至卓淳國、將襲新羅。時或曰、兵衆少之、不可破新羅。更復、奉上沙白・蓋盧、請増軍士。卽命木羅斤資・沙々奴跪是二人、不知其姓人也。但木羅斤資者、百濟將也。領精兵、與沙白・蓋盧共遣之。倶集于卓淳、擊新羅而破之。因以、平定比自㶱・南加羅・㖨國・安羅・多羅・卓淳・加羅、七國。仍移兵、西廻至古爰津、屠南蠻忱彌多禮、以賜百濟。於是、其王肖古及王子貴須、亦領軍來會。時比利・辟中・布彌支・半古、四邑、自然降服。是以、百濟王父子及荒田別・木羅斤資等、共會意流村。今云州流須祇。相見欣感。厚禮送遣之。唯千熊長彦與百濟王、至于百濟國、登辟支山盟之。復登古沙山、共居磐石上。時百濟王盟之曰、若敷草爲坐、恐見火燒。且取木爲坐、恐爲水流。故居磐石而盟者、示長遠之不朽者也。是以、自今以後、千秋萬歲、無絶無窮。常稱西蕃、春秋朝貢。則將千熊長彦、至都下厚加禮遇。亦副久氐等而送之。

百済は、必死だったようです。新羅とは諍いが絶えず、62年にも派兵してます。

  六十二年、新羅不朝。卽年、遣襲津彦擊新羅。

神功皇后のご陵は、奈良市街の北の佐紀の丘陵地にあります。

 

15 應神(おうじん)天皇

 1,弓月氏の来朝帰化

弓月氏は、秦の帝室の子孫のようであると目されています。「秦」や「羽田」など「ハタ」姓を其処に残している姓は、今現在にも多く見受けられます。

  十四年春二月、百濟王貢縫衣工女。曰眞毛津。是今來目衣縫之始祖也。是歲、弓月君自百濟來歸。因以奏之曰、臣領己國之人夫百廿縣而歸化。然因新羅人之拒、皆留加羅國。爰遣葛城襲津彦、而召弓月之人夫於加羅。然經三年、而襲津彦不來焉。

15代応神天皇14年は西暦でいえばほぼ213年です。

  

 2,漢字文化の正式受容

阿直伎および王仁が来朝します、百済からの遣わしでした。ミコ(皇子)の菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)が師事して漢字文化の導入が始まります。

  十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣阿直伎、貢良馬二匹。卽養於輕坂上厩。因以以阿直岐令掌飼。故號其養馬之處、曰厩坂也。阿直岐亦能讀經典。卽太子菟道稚郎子師焉。於是、天皇問阿直岐曰、如勝汝博士亦有耶。對曰、有王仁者。是秀也。時遣上毛野君祖、荒田別・巫別於百濟、仍徵王仁也。其阿直岐者、阿直岐史之始祖也。

十六年春二月、王仁來之。則太子菟道稚郎子師之。習諸典籍於王仁。莫不通達。所謂王仁者、是書首等之始祖也。

 3,倭漢直(やまとのあやのあたひ)阿知使主(あちのおみ)の来朝帰化

帰化人の多くがこの時代に来ます。

  廿年(20年)秋九月、倭漢直祖阿知使主、其子都加使主、並率己之黨類十七縣、而來歸焉。

兎に角、我が国はユートピアだったと言うことが出来そうです。脱出せざるを得なかった国は、大変だったのでしょうね。

しかしながら、「日本」では、ますます国内での混乱が頻発して起きて参ります。

16 仁徳(にんとく)天皇

 1,皇太子との戦争

皇太子は菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)となっていましたが、大鷦鷯(おおさざき)の天皇(仁徳天皇)は、『日本書紀』の文面上は禅譲の言葉で綴ってますが、どうも怪しい限りです。

大山守皇子は船上からの落船で溺れ死に。菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)は既に自殺していたというのです。 おかしい話です。

  大山守皇子、毎恨先帝廢之非立、而重有是怨。則謀之曰、我殺太子、遂登帝位。爰大鷦鷯尊、預聞其謀、密告太子、備兵令守。時太子設兵待之。大山守皇子、不知其備兵、獨領數百兵士、夜半、發而行之。會明、詣菟道、將渡河。時太子服布袍取檝櫓、密接度子、以載大山守皇子而濟。至于河中、誂度子、蹈船而傾。於是、大山守皇子、墮河而沒。

また、

既而興宮室於菟道而居之。猶由讓位於大鷦鷯尊、以久不卽皇位。爰皇位空之、既經三載。時有海人、齎鮮魚之苞苴、獻于菟道宮也。太子令海人曰、我非天皇、乃返之令進難波。大鷦鷯尊亦返、以令獻菟道。於是、海人之苞苴、鯘於往還。更返之、取他鮮魚而獻焉。讓如前日。鮮魚亦鯘。海人苦於屢還、乃棄鮮魚而哭。故諺曰、有海人耶、因己物以泣、其是之縁也。太子曰、我知不可奪兄王之志。豈久生之、煩天下乎、乃自死焉。時大鷦鷯尊、聞太子薨以驚之、從難波馳之、到菟道宮。爰太子薨之經三日。時大鷦鷯尊、摽擗叨哭、不知所如。乃解髮跨屍、以三乎曰、我弟皇子。乃應時而活。自起以居。爰大鷦鷯尊、語太子曰、悲兮、惜兮、何所以歟自逝之。若死者有知、先帝何謂我乎。乃太子啓兄王曰、天命也。誰能留焉。若有向天皇之御所、具奏兄王聖之、且有讓矣。然聖王聞我死、以急馳遠路。豈得無勞乎、乃進同母妹八田皇女曰、雖不足納采、僅充掖庭之數。乃且伏棺而薨。於是、大鷦鷯尊素服、爲之發哀、哭之甚慟。仍葬於菟道山上。

どう見ても、変な話です。何か、真実のことが隠さてていると、私は見ます。後には、隼別皇子も、殺されています。が、逃れたという伝も、一部にはあります。このあたりの事情が実にヲシテ文献時代から漢字国字化時代への変革の大混乱期です。ですから、詳しい伝承が、確かさについてのものが、少ないのですね。

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さて、さて、何時の時代に漢字国字化時代になったのか?

これからの論及が求められていると言えます。

 2,ヤマトタケさんの路線への反抗

政治路線の変革を象徴しているのが、陵(みささぎ)守りの解除です。白鳥陵つまり、ヤマトタケさんについて、もう、お墓は国家としては守らないよ、と、意思表示をしたのが、政治路線の表明です。

  六十年冬十月、差白鳥陵守等充役丁。時天皇親臨役所。爰陵守目杵、忽化白鹿以走。於是、天皇詔之曰、是陵自本空。故欲除其陵守、而甫差役丁。今視是怪者、甚懼之。無動陵守者。則且、授土師連等。

時代は、目まぐるしく変わる、今現代も、この当時にも全く同じですね。ヤマトタケさんがお亡くなりになられて、天皇陛下の御代の4代が経っただけです。御陵の国家補助は打ち切りというわけでした。今で言えば、明治神宮のこと、宗教としても認めずにきっちり税金を取りますよ、と言うような具合ですね。

またまた、ブログの調子がおかしくなりました、 その3、にと、分割をすることに致します。また、ちょうど、良い都合ですので公開日を2日にしときます。

2012年10月 1日 (月)

漢字国字化時代の始まりの頃に付きまして。 『ホツマ』などヲシテ時代の終焉の動乱の時代を見てみましょう。 その1

ヲシテ文献は、記紀と対比比較することによりまして、記紀の原書であると理解できます。つまり、この根拠からは西暦の720年以前には成立していた事になります。さて、さらに、古い時代まで、どこまで、文献的に遡れるか?

『ホツマツタヱ』末文には、12代ヲシロワケ(景行天皇)さんの56年に完成して献上したと記されています。問題は、それ以降の紀年が『日本書紀』の記述において引き伸ばされていると思われる個所が幾つもあることです。それで、景行天皇56年が、西暦の何年なのかがよく判らないのです。

また、遠く日本語の「やまとことば」の源流がヲシテ文字に発端が起きていたこと、『よみがえる日本語』で序論の概要は公表しました。ヲシテ文字が「やまとことば」の源流なら、時代の考慮として縄文時代であることは根拠に成り得ます。

西暦720年と、古代の縄文時代までの間、長い話です。

ヲシテ文献の成立後から、720年の、ざっと言えば8世紀初め頃のこと、また、景行天皇56年が西暦で言うと何年に当たるのか?  このあたりの事情について、少し考えてみましょう。

            ・             ・

記紀の前後関係は既に漢字文献の詳細な内容比較に拠って、梅沢伊勢三先生が、『古事記』は『日本書紀』よりも後世のものであることを解き明かして居られます。従いまして、より原材料に近い『日本書紀』を主に考えることになります。

         ・          ・         ・

『日本書紀』の成立には、その編集の直接の発端が、43代の女帝の元明天皇のミコトノリにあります。天智天皇の皇女(ひめみこ)さんですから、敗戦後の火中の混乱期のことが思いやられます。天智天皇は対中国戦争の白村江での大敗北を喫っしられた事がありました。『続日本記』です。

     元明天皇 、和銅7年(714)の2月10日

   詔従六位上紀朝臣清人。正八位下三宅臣藤麿。令撰国史。

 (従六位上の紀の朝臣清人と正八位下三宅の朝臣藤麿に、みことのりして、「国史」を撰じさせしむる)

西暦では714年、ここに、編纂の命が下ったのでした。

6年後の、元正天皇の養老4年5月21日(720)に、編集の完成が奏上されます。

     元正天皇 、養老4年(720)の5月21日

   先是。一品舎人親王奉勅修日本紀。至是功成奏上。紀30巻系図1巻。

 (此れの先、一品の(舎人親王)とねり しんのうには、みことのりを奉じて「日本紀」を修めさしむ。此処に至って、功成り奏上する。「紀(日本紀)」30巻系図1巻。)

                   ・

簡単にこれで『日本書紀』が編纂されたと、早合点してはなりません。実にもっともっと、長い歴史を経てきていたのです。

            ・            ・

もう少し遡ってみましたら、41代持統天皇の5年(691)の記事に注目されます。『日本書紀』です。

     持統天皇 、5年(691)8月13日

  八月己亥朔辛亥。詔十八氏。上進其祖等墓記。

不思議なことに持統天皇は、元明天皇さんと同様に女帝です。前回のミコトノリより29年前のことでした。女帝のご即位がある度に歴史を見直す必要に迫られるのかも知れません。我が国の長い伝統には極めて稀なヒメミコ(皇女)さまに皇位をお願いせねばならない状況に陥ることは、何時の時代の世の中にあっても心底ヒヤッとさせられる思いが人々の心に突き刺さるのでしょうね。小泉さんの急落は、わたくしはこの所にあったのだと思っています。

さて、もう一つ前の注目するべき記事を見ておいて貰う必要があります。天武天皇の10年、の記事です。

    天武天皇 、10年(681)3月4日

  丙戌、天皇御于大極殿、以詔川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首、令記定帝紀及上古諸事。大嶋・子首、親執筆以録焉。

西暦681年は、『日本書紀』完成の奏上の720年よりも39年前のことです。

さらに、天武天皇のもう1代前の天智天皇は、対中国戦争で大敗戦をしていました。百済を救おうとする戦争の大敗北です。この、『日本書紀』の天智天皇の条は、是非とも、原文をお読みいただきたいと思います。まさに、第二次大戦の敗戦後の雰囲気を彷彿とさせるものがあります。そのように、我が国のもがき苦しんだ時代であったと言うべきだと思います。

つまり、諸氏から原材料を集めたり、編集が以前にも為されていたのでした。何回も編集の手が加えられていた事実がここに見えるわけです。 つまり、諸伝は散逸したり混乱が生じていたわけです。 どうしてそうなってしまっていたか? ですね。

 

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さて、ヲシテ文献の『ホツマツタヱ』の献上された、12代ヲシロワケ(景行天皇)さんの56年から、38代天智天皇の、激動の時代を見てみましょう。韓半島の大混乱に引きずられて、我が国に大きな影響が起きていましたのでした。

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韓半島への直接の援助は、10代ミマキイリヒコ(崇神天皇)さんの63年(アスス683)に起きました。

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この後、ミマナ・ヲシに任じられたシホノリツの子孫は、ミコトノリのままに「日本」に帰国しています。シホノリツの子孫の吉田連は、『新撰姓氏録』に記載があります。頭(こうべ)にミコフ(知恵コブか?)があって、シホノリツは「マツのキミ」と渾名(あだな)されていました。背も高かったことも、祖先の事として記録されてました。

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「続日本紀 合」とあります、ので、見ておきましょう。この場合は『続日本後紀』です。

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ミマナの求めのままに、ちゃんと役割をはたして、きちっと「日本」に帰国してます。如何にも、当時の「日本」は大文明国であったことか、と思います。  後々の後世の時代になると不幸な事々も多く起きますが、そもそもが、韓半島側から「日本」へと頼ってきたのですね。それを、忘れてもらってはしょうがないので、こちら側からは常に表明しておくべしだと思います。

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さて、この後に、12代ヲシロワケ(景行天皇)さんになって、56年にヲシテ文献『ホツマツタヱ』も完成して献上されます。

しかし、韓半島の風雲は緊迫して来まして、景行天皇58年には、近江の高穴穂のミヤに出(いで)ましまして3年にして崩御なさいます。

       12代、景行天皇 58年  

白鳥の事だけで誅殺とは、考えがたいことです。何か、真原因がありそうです。お世継ぎ争いとか、政治上の大きな意見の違いだとかです。蘆髪蒲見別王(あしかみかまみ)さんは、ヤマトタケさんのお子さんです。

また、「是年也、太歲壬申。」 の記載があります事は注目されます。 ヲシテ文献の記述での「アスス」がこの「是年也、太歲」の漢訳文に景行天皇紀までの『日本書紀』にあったからです。つまり、ヲシテ文献風の記述が為されていたのを、後世になって漢字訳文に翻訳したことが伺われるのですね。「アスス」の暦のおこなわれていたことがあったかも? これが「太歳」の言葉でして、実に、天武紀まで記載があります。

     14代 仲哀天皇

  九年春二月癸卯朔丁未、天皇忽有痛身、而明日崩。時年五十二。即知、不用神言而早崩。一云、天皇親伐熊襲、中賊矢而崩也。

 仲哀天皇の崩御の事情につきましては、神功皇后の即位前紀に不思議な記事があります。

     15代摂政 神功皇后

  九年春二月、足仲彦天皇崩於筑紫橿日宮。時皇后傷天皇不從神教而早崩、以爲、知所崇之神、欲求財寶國。是以、命群臣及百寮、以解罪改過、更造齋宮於小山田邑。

 三月壬申朔、皇后選吉日、入齋宮、親爲神主。則命武內宿禰令撫琴。喚中臣烏賊津使主、爲審神者。因以千繒高繒、置琴頭尾、而請曰、先日教天皇者誰神也。願欲知其名。逮于七日七夜、乃答曰、神風伊勢國之百傳度逢縣之拆鈴五十鈴宮所居神、名撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命焉。

「神の教えに従わずして」とは? どう言う事か? です。それは、「財宝の国」つまり、新羅への遠征についての事のようです。ムカツヒメの教えであるというのです。まさに、神憑りに染まってきている時代と言えますね。 しかして、神功皇后は新羅遠征に渡海なさいますのでした。

     15代摂政 神功皇后

  冬十月己亥朔辛丑、從和珥津發之。時飛廉起風、陽侯舉浪、海中大魚、悉浮扶船。則大風順吹、帆舶隨波。不勞㯭楫、便到新羅。時隨船潮浪、遠逮國中。卽知、天神地祇悉助歟。新羅王、於是、戰々慄々厝身無所。

神功皇后の対新羅戦争は、朝貢させることを約束させて、一応の成果はあったと、記録されています。

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