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2012年10月 2日 (火)

漢字国字化時代の始まりの頃に付きまして。 『ホツマ』などヲシテ時代の終焉の動乱の時代を見てみましょう。 その2

あんまりにも、長すぎるので、分割しました。

                 ・

40代の天武天皇の10年(681)3月4日は西暦の682年です。前回の話の終わっているのは15代摂政の神功皇后ですから、西暦では200年と一応なってます。この頃には相当に紀年の引き伸ばしがあったと見れますので、大体の理解としておくほうが良いかと思います。この間にあった動乱について、大きなものだけでも、見ておくと、漢字国字化時代になってゆく時代背景が少しは理解しやすいと思います。

           ・            ・

此処からは時代列記にしましょう。

15 摂政、神功皇后

 1, 麛坂王(かごさかおう)と忍熊王の反乱

   爰伐新羅之明年(元年)春二月、皇后領群卿及百寮、移于穴門豐浦宮。卽收天皇之喪、從海路以向京。時麛坂王・忍熊王、聞天皇崩、亦皇后西征、幷皇子新生、而密謀之曰、今皇后有子。群臣皆從焉。必共議之立幼主。吾等何以兄從弟乎。乃詳爲天皇作陵、詣播磨興山陵於赤石。仍編船絚于淡路嶋、運其嶋石而造之。則毎人令取兵、而待皇后。於是、犬上君祖倉見別與吉師祖五十狹茅宿禰、共隸于麛坂王。因以、爲將軍令興東國兵。時麛坂王・忍熊王、共出菟餓野、而祈狩之曰、祈狩、此云于氣比餓利。若有成事、必獲良獸也。二王各居假庪。赤猪忽出之登假庪。咋麛坂王而殺焉。軍士悉慄也。忍熊王謂倉見別曰、是事大怪也。於此不可待敵。則引軍更返、屯於住吉。時皇后聞忍熊王起師以待之、命武內宿禰、懷皇子、横出南海、泊于紀伊水門。皇后之船、直指難波。

この後に、諸事あって、忍熊王は誅殺されます。麛坂王も忍熊王も系譜には、今現在にも疑問の声が寄せられています。

 2, 韓半島の内乱に巻き込まれる

当時の韓半島は諸国間の争いの最中でした。気の良い「日本」の力をどう取り込むかが争われていたようです。お人好しの「日本」は、上手く利用されていた感じです。

   卌九(49)年春三月、以荒田別・鹿我別爲將軍。則與久氐等、共勒兵而度之、至卓淳國、將襲新羅。時或曰、兵衆少之、不可破新羅。更復、奉上沙白・蓋盧、請増軍士。卽命木羅斤資・沙々奴跪是二人、不知其姓人也。但木羅斤資者、百濟將也。領精兵、與沙白・蓋盧共遣之。倶集于卓淳、擊新羅而破之。因以、平定比自㶱・南加羅・㖨國・安羅・多羅・卓淳・加羅、七國。仍移兵、西廻至古爰津、屠南蠻忱彌多禮、以賜百濟。於是、其王肖古及王子貴須、亦領軍來會。時比利・辟中・布彌支・半古、四邑、自然降服。是以、百濟王父子及荒田別・木羅斤資等、共會意流村。今云州流須祇。相見欣感。厚禮送遣之。唯千熊長彦與百濟王、至于百濟國、登辟支山盟之。復登古沙山、共居磐石上。時百濟王盟之曰、若敷草爲坐、恐見火燒。且取木爲坐、恐爲水流。故居磐石而盟者、示長遠之不朽者也。是以、自今以後、千秋萬歲、無絶無窮。常稱西蕃、春秋朝貢。則將千熊長彦、至都下厚加禮遇。亦副久氐等而送之。

百済は、必死だったようです。新羅とは諍いが絶えず、62年にも派兵してます。

  六十二年、新羅不朝。卽年、遣襲津彦擊新羅。

神功皇后のご陵は、奈良市街の北の佐紀の丘陵地にあります。

 

15 應神(おうじん)天皇

 1,弓月氏の来朝帰化

弓月氏は、秦の帝室の子孫のようであると目されています。「秦」や「羽田」など「ハタ」姓を其処に残している姓は、今現在にも多く見受けられます。

  十四年春二月、百濟王貢縫衣工女。曰眞毛津。是今來目衣縫之始祖也。是歲、弓月君自百濟來歸。因以奏之曰、臣領己國之人夫百廿縣而歸化。然因新羅人之拒、皆留加羅國。爰遣葛城襲津彦、而召弓月之人夫於加羅。然經三年、而襲津彦不來焉。

15代応神天皇14年は西暦でいえばほぼ213年です。

  

 2,漢字文化の正式受容

阿直伎および王仁が来朝します、百済からの遣わしでした。ミコ(皇子)の菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)が師事して漢字文化の導入が始まります。

  十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣阿直伎、貢良馬二匹。卽養於輕坂上厩。因以以阿直岐令掌飼。故號其養馬之處、曰厩坂也。阿直岐亦能讀經典。卽太子菟道稚郎子師焉。於是、天皇問阿直岐曰、如勝汝博士亦有耶。對曰、有王仁者。是秀也。時遣上毛野君祖、荒田別・巫別於百濟、仍徵王仁也。其阿直岐者、阿直岐史之始祖也。

十六年春二月、王仁來之。則太子菟道稚郎子師之。習諸典籍於王仁。莫不通達。所謂王仁者、是書首等之始祖也。

 3,倭漢直(やまとのあやのあたひ)阿知使主(あちのおみ)の来朝帰化

帰化人の多くがこの時代に来ます。

  廿年(20年)秋九月、倭漢直祖阿知使主、其子都加使主、並率己之黨類十七縣、而來歸焉。

兎に角、我が国はユートピアだったと言うことが出来そうです。脱出せざるを得なかった国は、大変だったのでしょうね。

しかしながら、「日本」では、ますます国内での混乱が頻発して起きて参ります。

16 仁徳(にんとく)天皇

 1,皇太子との戦争

皇太子は菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)となっていましたが、大鷦鷯(おおさざき)の天皇(仁徳天皇)は、『日本書紀』の文面上は禅譲の言葉で綴ってますが、どうも怪しい限りです。

大山守皇子は船上からの落船で溺れ死に。菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)は既に自殺していたというのです。 おかしい話です。

  大山守皇子、毎恨先帝廢之非立、而重有是怨。則謀之曰、我殺太子、遂登帝位。爰大鷦鷯尊、預聞其謀、密告太子、備兵令守。時太子設兵待之。大山守皇子、不知其備兵、獨領數百兵士、夜半、發而行之。會明、詣菟道、將渡河。時太子服布袍取檝櫓、密接度子、以載大山守皇子而濟。至于河中、誂度子、蹈船而傾。於是、大山守皇子、墮河而沒。

また、

既而興宮室於菟道而居之。猶由讓位於大鷦鷯尊、以久不卽皇位。爰皇位空之、既經三載。時有海人、齎鮮魚之苞苴、獻于菟道宮也。太子令海人曰、我非天皇、乃返之令進難波。大鷦鷯尊亦返、以令獻菟道。於是、海人之苞苴、鯘於往還。更返之、取他鮮魚而獻焉。讓如前日。鮮魚亦鯘。海人苦於屢還、乃棄鮮魚而哭。故諺曰、有海人耶、因己物以泣、其是之縁也。太子曰、我知不可奪兄王之志。豈久生之、煩天下乎、乃自死焉。時大鷦鷯尊、聞太子薨以驚之、從難波馳之、到菟道宮。爰太子薨之經三日。時大鷦鷯尊、摽擗叨哭、不知所如。乃解髮跨屍、以三乎曰、我弟皇子。乃應時而活。自起以居。爰大鷦鷯尊、語太子曰、悲兮、惜兮、何所以歟自逝之。若死者有知、先帝何謂我乎。乃太子啓兄王曰、天命也。誰能留焉。若有向天皇之御所、具奏兄王聖之、且有讓矣。然聖王聞我死、以急馳遠路。豈得無勞乎、乃進同母妹八田皇女曰、雖不足納采、僅充掖庭之數。乃且伏棺而薨。於是、大鷦鷯尊素服、爲之發哀、哭之甚慟。仍葬於菟道山上。

どう見ても、変な話です。何か、真実のことが隠さてていると、私は見ます。後には、隼別皇子も、殺されています。が、逃れたという伝も、一部にはあります。このあたりの事情が実にヲシテ文献時代から漢字国字化時代への変革の大混乱期です。ですから、詳しい伝承が、確かさについてのものが、少ないのですね。

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さて、さて、何時の時代に漢字国字化時代になったのか?

これからの論及が求められていると言えます。

 2,ヤマトタケさんの路線への反抗

政治路線の変革を象徴しているのが、陵(みささぎ)守りの解除です。白鳥陵つまり、ヤマトタケさんについて、もう、お墓は国家としては守らないよ、と、意思表示をしたのが、政治路線の表明です。

  六十年冬十月、差白鳥陵守等充役丁。時天皇親臨役所。爰陵守目杵、忽化白鹿以走。於是、天皇詔之曰、是陵自本空。故欲除其陵守、而甫差役丁。今視是怪者、甚懼之。無動陵守者。則且、授土師連等。

時代は、目まぐるしく変わる、今現代も、この当時にも全く同じですね。ヤマトタケさんがお亡くなりになられて、天皇陛下の御代の4代が経っただけです。御陵の国家補助は打ち切りというわけでした。今で言えば、明治神宮のこと、宗教としても認めずにきっちり税金を取りますよ、と言うような具合ですね。

またまた、ブログの調子がおかしくなりました、 その3、にと、分割をすることに致します。また、ちょうど、良い都合ですので公開日を2日にしときます。

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