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2012年10月 1日 (月)

漢字国字化時代の始まりの頃に付きまして。 『ホツマ』などヲシテ時代の終焉の動乱の時代を見てみましょう。 その1

ヲシテ文献は、記紀と対比比較することによりまして、記紀の原書であると理解できます。つまり、この根拠からは西暦の720年以前には成立していた事になります。さて、さらに、古い時代まで、どこまで、文献的に遡れるか?

『ホツマツタヱ』末文には、12代ヲシロワケ(景行天皇)さんの56年に完成して献上したと記されています。問題は、それ以降の紀年が『日本書紀』の記述において引き伸ばされていると思われる個所が幾つもあることです。それで、景行天皇56年が、西暦の何年なのかがよく判らないのです。

また、遠く日本語の「やまとことば」の源流がヲシテ文字に発端が起きていたこと、『よみがえる日本語』で序論の概要は公表しました。ヲシテ文字が「やまとことば」の源流なら、時代の考慮として縄文時代であることは根拠に成り得ます。

西暦720年と、古代の縄文時代までの間、長い話です。

ヲシテ文献の成立後から、720年の、ざっと言えば8世紀初め頃のこと、また、景行天皇56年が西暦で言うと何年に当たるのか?  このあたりの事情について、少し考えてみましょう。

            ・             ・

記紀の前後関係は既に漢字文献の詳細な内容比較に拠って、梅沢伊勢三先生が、『古事記』は『日本書紀』よりも後世のものであることを解き明かして居られます。従いまして、より原材料に近い『日本書紀』を主に考えることになります。

         ・          ・         ・

『日本書紀』の成立には、その編集の直接の発端が、43代の女帝の元明天皇のミコトノリにあります。天智天皇の皇女(ひめみこ)さんですから、敗戦後の火中の混乱期のことが思いやられます。天智天皇は対中国戦争の白村江での大敗北を喫っしられた事がありました。『続日本記』です。

     元明天皇 、和銅7年(714)の2月10日

   詔従六位上紀朝臣清人。正八位下三宅臣藤麿。令撰国史。

 (従六位上の紀の朝臣清人と正八位下三宅の朝臣藤麿に、みことのりして、「国史」を撰じさせしむる)

西暦では714年、ここに、編纂の命が下ったのでした。

6年後の、元正天皇の養老4年5月21日(720)に、編集の完成が奏上されます。

     元正天皇 、養老4年(720)の5月21日

   先是。一品舎人親王奉勅修日本紀。至是功成奏上。紀30巻系図1巻。

 (此れの先、一品の(舎人親王)とねり しんのうには、みことのりを奉じて「日本紀」を修めさしむ。此処に至って、功成り奏上する。「紀(日本紀)」30巻系図1巻。)

                   ・

簡単にこれで『日本書紀』が編纂されたと、早合点してはなりません。実にもっともっと、長い歴史を経てきていたのです。

            ・            ・

もう少し遡ってみましたら、41代持統天皇の5年(691)の記事に注目されます。『日本書紀』です。

     持統天皇 、5年(691)8月13日

  八月己亥朔辛亥。詔十八氏。上進其祖等墓記。

不思議なことに持統天皇は、元明天皇さんと同様に女帝です。前回のミコトノリより29年前のことでした。女帝のご即位がある度に歴史を見直す必要に迫られるのかも知れません。我が国の長い伝統には極めて稀なヒメミコ(皇女)さまに皇位をお願いせねばならない状況に陥ることは、何時の時代の世の中にあっても心底ヒヤッとさせられる思いが人々の心に突き刺さるのでしょうね。小泉さんの急落は、わたくしはこの所にあったのだと思っています。

さて、もう一つ前の注目するべき記事を見ておいて貰う必要があります。天武天皇の10年、の記事です。

    天武天皇 、10年(681)3月4日

  丙戌、天皇御于大極殿、以詔川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首、令記定帝紀及上古諸事。大嶋・子首、親執筆以録焉。

西暦681年は、『日本書紀』完成の奏上の720年よりも39年前のことです。

さらに、天武天皇のもう1代前の天智天皇は、対中国戦争で大敗戦をしていました。百済を救おうとする戦争の大敗北です。この、『日本書紀』の天智天皇の条は、是非とも、原文をお読みいただきたいと思います。まさに、第二次大戦の敗戦後の雰囲気を彷彿とさせるものがあります。そのように、我が国のもがき苦しんだ時代であったと言うべきだと思います。

つまり、諸氏から原材料を集めたり、編集が以前にも為されていたのでした。何回も編集の手が加えられていた事実がここに見えるわけです。 つまり、諸伝は散逸したり混乱が生じていたわけです。 どうしてそうなってしまっていたか? ですね。

 

           §       §      §

 

さて、ヲシテ文献の『ホツマツタヱ』の献上された、12代ヲシロワケ(景行天皇)さんの56年から、38代天智天皇の、激動の時代を見てみましょう。韓半島の大混乱に引きずられて、我が国に大きな影響が起きていましたのでした。

                    ・

韓半島への直接の援助は、10代ミマキイリヒコ(崇神天皇)さんの63年(アスス683)に起きました。

Mimana

Sihonoritu2_2 

この後、ミマナ・ヲシに任じられたシホノリツの子孫は、ミコトノリのままに「日本」に帰国しています。シホノリツの子孫の吉田連は、『新撰姓氏録』に記載があります。頭(こうべ)にミコフ(知恵コブか?)があって、シホノリツは「マツのキミ」と渾名(あだな)されていました。背も高かったことも、祖先の事として記録されてました。

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「続日本紀 合」とあります、ので、見ておきましょう。この場合は『続日本後紀』です。

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ミマナの求めのままに、ちゃんと役割をはたして、きちっと「日本」に帰国してます。如何にも、当時の「日本」は大文明国であったことか、と思います。  後々の後世の時代になると不幸な事々も多く起きますが、そもそもが、韓半島側から「日本」へと頼ってきたのですね。それを、忘れてもらってはしょうがないので、こちら側からは常に表明しておくべしだと思います。

           ・     ・

さて、この後に、12代ヲシロワケ(景行天皇)さんになって、56年にヲシテ文献『ホツマツタヱ』も完成して献上されます。

しかし、韓半島の風雲は緊迫して来まして、景行天皇58年には、近江の高穴穂のミヤに出(いで)ましまして3年にして崩御なさいます。

       12代、景行天皇 58年  

白鳥の事だけで誅殺とは、考えがたいことです。何か、真原因がありそうです。お世継ぎ争いとか、政治上の大きな意見の違いだとかです。蘆髪蒲見別王(あしかみかまみ)さんは、ヤマトタケさんのお子さんです。

また、「是年也、太歲壬申。」 の記載があります事は注目されます。 ヲシテ文献の記述での「アスス」がこの「是年也、太歲」の漢訳文に景行天皇紀までの『日本書紀』にあったからです。つまり、ヲシテ文献風の記述が為されていたのを、後世になって漢字訳文に翻訳したことが伺われるのですね。「アスス」の暦のおこなわれていたことがあったかも? これが「太歳」の言葉でして、実に、天武紀まで記載があります。

     14代 仲哀天皇

  九年春二月癸卯朔丁未、天皇忽有痛身、而明日崩。時年五十二。即知、不用神言而早崩。一云、天皇親伐熊襲、中賊矢而崩也。

 仲哀天皇の崩御の事情につきましては、神功皇后の即位前紀に不思議な記事があります。

     15代摂政 神功皇后

  九年春二月、足仲彦天皇崩於筑紫橿日宮。時皇后傷天皇不從神教而早崩、以爲、知所崇之神、欲求財寶國。是以、命群臣及百寮、以解罪改過、更造齋宮於小山田邑。

 三月壬申朔、皇后選吉日、入齋宮、親爲神主。則命武內宿禰令撫琴。喚中臣烏賊津使主、爲審神者。因以千繒高繒、置琴頭尾、而請曰、先日教天皇者誰神也。願欲知其名。逮于七日七夜、乃答曰、神風伊勢國之百傳度逢縣之拆鈴五十鈴宮所居神、名撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命焉。

「神の教えに従わずして」とは? どう言う事か? です。それは、「財宝の国」つまり、新羅への遠征についての事のようです。ムカツヒメの教えであるというのです。まさに、神憑りに染まってきている時代と言えますね。 しかして、神功皇后は新羅遠征に渡海なさいますのでした。

     15代摂政 神功皇后

  冬十月己亥朔辛丑、從和珥津發之。時飛廉起風、陽侯舉浪、海中大魚、悉浮扶船。則大風順吹、帆舶隨波。不勞㯭楫、便到新羅。時隨船潮浪、遠逮國中。卽知、天神地祇悉助歟。新羅王、於是、戰々慄々厝身無所。

神功皇后の対新羅戦争は、朝貢させることを約束させて、一応の成果はあったと、記録されています。

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