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« 「あな たま はや み」のタマ(宝石)の出現か?  秋津遺跡のヒスイ玉。 纏向遺跡のモモの種。 | トップページ | 『古事記』などの除染の方法 »

2011年7月18日 (月)

生きるとは、生物のリ・モデリングのこと。 社会も国家も、同じような。

 ひと頃前までは「新陳代謝」と言っていました。

ヒト(人)が身体を健康に維持してゆく働きの事です。

少し前に、「動的平衡」なんて言葉も流行りました。

今には「リ・モデリング」の言葉が、一般的になりつつあるようです。「リ・モデリング」とは、最も言い表し得てタエ(妙)のように感じられてきます。

           ・

 どのようにしていったら、健康状態を上手く健康に若返りつつ維持してゆくことができるか?  再びのモデリング、ですね。

それには、三つの要点があると思います。

  1、どうあるべきか? (設計、理想の蓋然性)

  2、作りゆく力。 (設計、理想のように直してゆく力)

  3、害毒のこと。 (毒物での阻害は、設計図をもむしばみ、直してゆく力も削ぎます)

       ・     ・      ・         

 1、の「どうあるべきか?」の障害は、生物でのり・モデリングで言いますと、遺伝子に起きた深刻な壊滅です。

 どう直してよいか? 不明になってしまったら、どうにもなりません。強烈な放射線を外部被ばくしたようなものです。設計図の取戻しからになります。

            ・

 2、の「作りゆく力」は、食物を摂取し消化吸収してこそ、り・モデリングのツイエ(費え)になり得ます。植物では光のエネルギーもこれに当たります。

            ・

 3、の「害毒の事」は、種々恐ろしいものです。強烈な放射線は生物の設計図も壊しますし、「作りゆく力」も錯乱させて機能不全にしてしまいます。毒物には、放射線だけでなくて、物質的な害毒もありますし、または見えにくいヒトから及ぼされる悪意なども含まれますほどに種々あまたにあります。

        ・        ・

 美しく生命を保つという事は、あまたの困難の克服の上に咲く花だと思います。

社会や・国家にしても、

おおよそ同じな事ではないかと思います。

どのような形が望ましいか?

それが、言葉を変えると「憲法」とか、規範とか謂われるものです。

しかし、その前提とする状況が変わることがあれば、結論としての規範も、

土台が変われば、変わらざるを得ないのですね。

   土台が、変わる、

 その場合にどうするか?  の話なのです。 ヲシテ文献は。

それなので、難しいのです。

      ・      ・      ・

 『古事記』『日本書紀』など漢字文献類は、とても大きな錯誤の果てに作られていたのでした。ここを雪(すす)がなくてはなりません。

 先の、三つの要点の、

  1、どうあるべきか? (設計、理想の蓋然性)

  2、作りゆく力。 (設計、理想のように直してゆく力)

  3、害毒のこと。 (毒物での阻害は、設計図をもむしばみ、直してゆく力も削ぎます)

 主に、1、と3、とを直し行くことにあるわけだと思います。

先は、とにかく長いものだと思っています。

                       /

   追記

あとで気が付きましたのですが、

上掲の三つの要点は、

「ミクサタカラ(三種の神器)」の原理にも沿っていますですね。

 現代に、活かしてゆくべき何かがあると思います。

 

  1、どうあるべきか? (設計、理想の蓋然性)は、  「トのヲシテ」。

  2、作りゆく力。 (設計、理想のように直してゆく力) は、 左に位置する春の伸び行く力。

  3、害毒のこと。 (毒物での阻害は、設計図をもむしばみ、直してゆく力も削ぎます) を防御するには、 右に位置する秋のまとめ正す力。

     ・       ・       ・

  追記:写真

ある日の机の横です。

Photo

 

ヲシテ文献の読み進め方は、こちらを参照してください。

例として、「タツ」の事の解き明かしはこちら。

根拠のことなどは、こちら。

     ∞      ∞

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本当の意味での、日本の独立は縄文遡及で!

           ・

古史古伝、は「偽書」です。  お間違えなく!

「秀真伝」も「偽書」の一種です。

「秀真伝(しゅうしん でん)」は、ヲシテ時代の人名を

漢字表記してるので、スグ分かります。  お間違えなく!

せっかく見つけた、漢字以前の高度な縄文日本の文明、

なのに、外国文化の色眼鏡で貶めて見ようとする、構造的な間違いです。 偽書ですね、気持ち悪いですね。

共に、即、廃棄してください!  捨ててくださいね。

偽書運動には、終末を迎えさせなくてはなりません!

 

 

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コメント

 
 クニウミ、オノコロ というのがキーワードのヲシテ世界。

「国づくり」という、作為・さかしらはどうなのでしょうか。

1、どうあるべきか? (設計、理想の蓋然性)
2、作りゆく力。 (設計、理想のように直してゆく力)

この言葉遣いには、ルソー・マルクス(遡ればキリスト・ユダヤ教)の創世主義、人智絶対主義に落ち込み勝ちなニュアンスがあります。危険だと思います。

さかのぼってさかのぼっても、人格性のない「ヲヤ」にしか至らないというのは、「設計」という概念がないことを意味していますし、同様に、カミに遡ってスエのためしとしているのは、架空の理想を追わないという、地に足の着いたヤマトの姿を現しているのです。

 
 
 
 
1、どうあるべきか? (設計、理想の蓋然性)
2、作りゆく力。 (設計、理想のように直してゆく力)

の、話は、生命維持の働きを、
1、DNAのような基本のモノ
2、基本に応じて作り直してゆく力
に分けて考えたものです。
 大宇宙が生成されて、ヒトが出現して、今に至ってきていますが、DNAも時とともに変化してきています。それは、大宇宙生成時からずーっと、変化がたゆまずおこなわれてきているものと、考えられます。そして、今後もその変化は片時も変わらず続いてゆくものと思っています。
        ・
 なお、「さかしら」の概念は宣長の『古事記』への狂信的な心酔から、同様の崇拝者でない他の人を非難攻撃して言う言葉として発せられたものでして、ちょっと違うと思います。彼こそが、『古事記』に毒されてて変だと思います。
 「『古事記』教」の、怪しさ恐ろしさが此処にも表れてますようです。
 ヲシテ文献にある「サカシラ」は、下記の3例です。
ホ27-86(7041)
ホ38-90(9954)
ホ39-94(10371)
 宣長の言う「さかしら」の言葉の意味とは、だいぶ違うと思います。
         ・
 また、「くにうみ」という事は、実態が乱れた国家の再建にあったわけです。
 「おのころ」という事は、畜力の農耕への導入で、作業効率が飛躍的に向上したことに、実態があります。
 手をこまねいて、お祈りするばかりが能ではないと思います。実質を見れば、手に額に汗を流してこそ得られてゆく、のが、本来の事だと思います。それには、どうやってゆくか? 展望と将来像を描いてからのことで、イサナギさん、イサナミさんは、とてもお偉かったのだと思います。

       ・    ・

 話は、随分と飛びますが、
七夕の、日中比較の記事がありました。
http://j.people.com.cn/94475/102690/index.html
中国から、文化は何でも来たんだ! なーんて言ってたのも、そろそろ、そんなこと言う人も減ってきますでしょうかね?
年中行事は、旧暦でやり直してゆきたいものですね。 

  
 
 
 
 

「うむ」「つくる」の音のニュアンスの問題です。

「うむ」とは、「アウワ」の「ウ」が表れるということなんではないでしょうか。
そして、同時に、「うむ」「うける」の関係になっていて、「頼みにできる人物を見出しゆだねる」の意味あいかと思います。

>手をこまねいて、お祈りするばかりが能ではない

というのはシナ文明との関係で除染しなければなりませんが、ヤマトの復興・再発見には、同時に西洋文明もまた除染せねばなりません。

「作る・作為」感覚は西洋文明に色濃い思想ですし、戦後の日本人あるいは明治以降の日本人がしらずに学校教育を通じて染められている感覚です。この感覚は自覚しておかなければ、「脱古事記」には成功しても「脱明治維新の負の部分」には成功できず、将来に禍根を残すことになります。




脱『古事記』も大変な作業です。
これから、の、本当に大変な大きな社会事業のひとつの取り組みの課題になるのでしょうね。
        ・
また、お察しの如くに、
その先の「本来の国学」の再構築が急がれます。
 この事は背に火を負いての状況のようかと存じます。
このため、
何時もながら、何かアイデアを纏めようとして、日々刻々悩み考え続けているわけです。それで、頭の毛が減ってゆくのですかね? 若い頃からですから、遺伝にかかわるのが主要因かも?
参考書無き手探りの試行錯誤での歩みは、まさしく牛歩の如しです。  思うほどには、歩みの進みがちょっともセンチもメートルも、目に見えての数字を稼いではいませんです。まさしく、牛歩か何か、歩みの遅いものですね。
      ・
ある日の机の横のぶら下げモノの写真を、ブログの本文に掲げます。
 
それに付きましても、
 「デジタル・ヲシテ」の威力は素晴らしいものです。
手書きで貼り繰りまくってた頃とは、効率が断然違います。
でも、
考えて、思い遣って当時の時代の真相を明らかにしてゆくには、想像力が必要ですので、ここは、矢張りネックなので御座います。
あれやこれや、こうでもないし、こうあれば意味が通るか?  などと、結局のトドの詰りは悩みの迷路です。
 ですが、これが、不思議なところで、
数日も、悩み続けてましたら、フッと光明の明かりが通ってくる、  それは、嬉しくも楽しい事なのです。これがあるので、長らくヲシテ解明にどっぷりとやって来続けていたのかも? と、思います。
 光明の明かりは、10っ個のうち9個程はダメな事が多いですがね。私の場合はです。空振りの方が断然に多いです。
 空振りだったとしても、悩み続けていた問題に、光が現れたのは、それは、びっくりの興奮の楽しい出来事の、いわば爆発です。
 検証段階での、なーんだ、の思いは、あまりにも多かったので忘れることにしています。1000個のうち一つでも発見があったら、麗しいことだと思うようになりました。
  発見・解明のうれしさは、体験してみてかも?  です。
だって、考えても見て欲しいのですが、
漢字国字化時代の1500年余りの忘却の長年月のあとに、突如としての、ヲシテ文献の発見です。100000人のうち、おそらく99999人が理解し得ないのは当たり前のことだと思います。
ですが、種々、状況証拠を押さえてゆきましたら、これが、真実の事であると、判断出来うるのでした。
さて、
迷妄だと言ったら怒られましょうが、世間的には随分と時間的なラグがあります。認識レベルの事ですけれど。
その事の是非はさて置きまして、
我が国の建国の理念は、今後の世界全体を導いてゆくべき大理念だと、わたくしは、理解しました。この故に、我が国の根底の理念の立て直しは前提の事としまして、世界の今後の成り行きにこの理念を提示してゆくことが大きな見地に立ってのわが民族の為し行く姿ではないかと、思い定めるようになるのでした。
          ・
 大理念に対して、
周辺の事々がむつかしいです。
派生のミチですね。
時間的な時代変遷も難しいです。
      ・        ・
ミチやノリ、あるいはオキテのヲシテ時代の概念の変遷についての包括的研究も待たれています。漢字文献時代に繋がる連続性も考慮に入れた視点が必要だと思います。何しろ、それが、大昔からの渾然融合の大文明としての我が国の姿(真相)なのですから。 より良きことは、是として取り込んでゆく、これが大文明たるチカラだと思います。
  「トのヲシテ」の真実の発露だと思います。

 
 
 
 
 
「トのヲシテ」についてですが、分るような、分らんようなという感じでこの5年ほどおりましたが、

一言で、誰にでも分るように言え、ということでいうと、

「まごころに基づいて国をおさめる」

ということに尽きるのだと思います。その表れが「恵民立国」です。「みやび」で治めるというのもそうだし、「ながさき」で治めるというのもそうです。

そして、そのことを「まこと」とするのが、アメノミチなのではないかと思います。

それゆえに、カンタカラは変れども、トのヲシテは変らず、そして、そのトのヲシテは、ナカゴに宿るというのも道理です。

トのヲシテという言葉は忘れられたけれど、「マコト」という言葉に今に生きているでしょう。

そして何を「マコト」とするのか、なにが「まごころ」であるのかは、当事者が独断できめるようなものでなく、遠く遠くはるかご先祖まで心を通わせ、その叡智をヲシエとし、今に生かすのが、ヤマトのこころなのだろうと思われます。

 
 
 
 
 
 そういうことだと思います。
時節・時代・状況は、目まぐるしく変わって行きます。
今は何千年にもまれな、殊更の急激変化の加速時代だと思います。
100年間の変化が、一年で起きるような…。
もっと、はなはだしい時代にあるのかも知れません。
        ・
 状況が変われば、
過去のそれがいい、と思っていたルールや規範は色を失います。
で、  そこで、何がルールの根幹か?
それを考えた場合に、「トのヲシテ」こそが、
すべての規範やルールの根底に据えるべきであるもの。
そのような、理解に達しましたので、これまで、すべてを投げ出して此処に邁進してきました。しかしながら、コトは大きいのです。まだまだ、周辺の事々など、未解明の事は山積でして、どうにもならないほど、私は困っております。あれも、解らなければ、これも、まだ!  毎日日々一刻が切羽詰まった悩みの連続です。
        ・
 きょうは、一つのウタについてひらめきが有りました。良いかどうか? 検証は、これからですが、、蝸牛の歩みでも歩みは歩みで前進なのだと…。
    ・         ・   
またまた、これも、何時ものように外れかも?  です、かも?  ね。
新たなる、革新創造の事とは、そうは、安易に容易くはいきませんものだと思います。

 
 
 
 
このような理解・感得でよかったようで、ほっとしました。

マコト、まごころをベースに国を動かす。

これはあまりに当たり前のようなことですが、世界各国をみてもそんな事はなく、また、我が国の政治においても、幾度と無く失われかかっているものです。その度に、マトに戻る、この国には、確固たる戻るべきミハシラがあるということは、この上もなくありがたい事ですね。

そんなことでこの国が成立したというのは、感謝してもし切れないことと思います。

ようやく、もう一度ヲシテ研究に戻れそうです。思想的浄化・除染は終わりました。改めて、ヲシテ原文と向き合いたいと思います。




アマテルカミの時代でもそうでしたし、
今なら、なおさらで、
ヒトの良さそうなのを見付けたら、
食い物にしてゆく,と、
いった人が多くあります。

基本の「トのヲシテ」の原理、
食い物にしてゆこうとする人たち、
どのように、コントロールすべきか?
「トのヲシテ」のマコトの実現・実際への発露にはどうしたらよいか?
現代への応用・適応について、
確固たる仕組みを作らねばとも思い悩んでおります。

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