ヲシテ文献との、出会い。 わたくしの場合。 松本善之助先生との出会い。
よく訊(き)かれますことです。 昨日の夜にも、聞かれました。
わたくしのヲシテ文献との出会いのこと、を、です。
これを、ご説明しておきましょう。
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松本善之助先生は、自由国民社で編集長をなさっていた、お人です。
初代の草創期の『現代用語の基礎知識』編集長です。
ドラッカーの『現代の経営』(初代翻訳本、昭和31年刊、あとで幾つもの訳本が出てます)
に、編集局長としてドラッカーに直談判の手紙をねじり鉢巻きで書いたのだと、
おっしゃっておられました。
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追記 -平成24年7月24日-
多くの人が『現代の経営』によって、敗戦後の日本にあって多大な刺激を受けたことを、色々と知りました。わたくしには、理解の及ばなかったことを告白します。
P,ドラッカーさんの、新鋭の写真です。ここに掲げて、私の不明の事を懺悔したいと思います。
追記を終わります。
・
さてさて、
その、 松本善之助氏が、本当に偶然、ヲシテ文献を発見し、
それからは、すべてを投げ打って取り組まれていたのでした。 地方に住む、高校生2年生のわたくしとの出会いは、本当に不思議の不思議の連続でした。
・
今を去る、38年前 (1972) の事でした。
当時、わたくしは川西市(兵庫県)に暮らしていまして、高校2年生のときでした。
学園紛争でずいぶんと苦労をしていましたのを思い出します。
生徒会の副会長でしたので、紛争の混乱がモロに身に及びました。
3年生の指導的人達は、みんな引き籠ってしまい、矢面に立たされたのが逃げないわたくしひとり。
あれからです、髪の毛が薄くなり出したのは、です。
何ヶ月も吊るされた、そんな騒ぎもおさまっての、ある日のことでした。
新聞の3行案内で、尼崎市の同人誌「AMAZON(アマゾン)」の、
案内が、ふと、目に留まりました。
暑い時期でした、次回の例会は○月○日夕方○時から、○○公民館で。
希望者は参加しても可。 と。
今も、立派に活動しておられます。
http://www.geocities.jp/hiwaki1/doujin/kakushi/amazon.htm
38年前のあの時、
わたくしは、
ふっと、 なぜか? 参加を決めました。
・ ・
尼崎にはバスで行くわけでした、宝塚からの路線です。 が、少し早めに着きました。
いつも、延着する事が頻繁なバス路線なので早めに出発したためでした。
歩道橋を上ると、向こう側に、古本屋が見えました。
腕時計を見ますと、あと30分あります。
ちょうど良い、と。 店内に入りました。
此処で見つけたのが、読めない漢字のある本でした。
『守護?さんと私』
? が読めません。
・
安かったので、買う事にしました。この時期、漢字に執着していました。
後で解りましたが、落丁本(ページに組み落ちや違えがある)で捨てられたのが、
何故か、めぐりめぐって古本屋に並んでいたのでして、こんなことは、まずないとのことでした。
さて、本の題名『守護?さんと私』。 なんと読むのか?
辞典を見ても出ていません。
出版元の「真の道」に電話をして聞いてみました。東京世田谷でした。
すると、大阪に支部があるとの事。
次の休日に行ってみる事にしました。
さて、
その、梅田の大阪市北区堂山町の支部にて、
松本善之助さんの話があるから、聞いてみますか?
と。何でも『古事記』の前の話だとの事です。
「へー? おもしろそう」 と。
このような、
出会いになったのでした。
不思議な不思議な偶然の何重にも重なったいきさつでした。
・ ・
はじめ、
松本善之助先生のお話を聞いた日には、
雲をつかむようでした。
それでも、
何か鬼気迫るものを、あるいは、真実に限りなく近いなにものかを、
感じたのですね。 もうすぐ刷り上がるとの印影版の『ホツマツタヘ』の購買を決めていました。
お送りくださった、『覆刻版ホツマツタヘ』(小笠原 長弘 写本、復刻)に取り組みました。
<『覆刻版ホツマツタヘ(小笠原長弘写本)』
最初のアヤのあたりだけルビが振ってあって、
後は、ヲシテだけの所謂(いわゆる)白文(はくぶん)>
言葉のうつくしさに強く惹かれていったような回想でしょうか。
古本屋もそうでしたが、
あちこちの、図書館に通って、幾つもの国語辞典・古語辞典にあたりました。
ちょっとも、埒があきませんでした。 〝をしかど〟なんていう言葉は、どんな辞書にも出ません。
当時に、通った図書館は、
メーンが、
大阪、中之島図書館。
(食堂のカレーは肉が入って無いので大好きです。今も少しも変わらないのには、このあいだも、ゾクゾクしちゃいました)
池田、池田文庫。 (財団法人 阪急学園)
(当時の、移築の古建築の建物がなつかしいです。小林一三さんのお気持ちが今になって、よく、偲ばれます。窓の木枠の年輪の輪が妙に残って硬くとんがって黒くて綺麗なんですね。ひだまりの、窓辺。 逸翁美術館でも本当にお世話になりました。美意識は、ここに若い頃勉強させてもらえたのであったかと、回想します。ヲシテ文献にある、ヲヲヤケの精神もですね。一三さんはお偉いお方だと、常々思っております)
その他、夕陽ヶ丘図書館、神戸の県立図書館などなど、 よくよく、お世話になりました。
竹内文書の『神代の万国史』なんて買ったのも、このころでした。
(今なら、ネットで早く解決なのでしょうけれどね、 怪しげモノは)
そのうち、松本善之助先生からのお便りで、
大阪、自然社にて、研究会を始めるのでよかったら来てはどうか?
と、お誘いをいただきました。
本当に、きびしかったですね。松本先生の大病(脳血栓)の以前はです。 みんな、頭からの叱りつけ罵倒になっちゃいますものね。
(当時、若い人も、けっこう居ましたでした。
国学院の学生さんとか、若い人は私の他にも居たのでしたが、
あの当時は、アカデミックに縁が濃いと、
逆にダメになるのでしょうかね?
それは、そうですよね。
松本先生のご気性はとても激しいですからね。
なんで! ちゃんと、やらないんだ!
と、
でも、 時期が時節が熟していないのですよね。
今でこそ、ほんの多少は、世間的に理解も出てきましたが、
当時は、まったくの、ひどいものでした、 から。
ほとんど気違い扱いになっちゃいます。
無理強いは、ムリなのですね。
それで、ツブれにと… ですね。
時期が・時節が、 未だしの、ことで、
アカデミックに近いほど擂り潰されです)
大阪の天王寺の、謡曲でも有名な松虫に通うことになったのは、
かくある成り行きの経緯(いきさつ)からでした。
自然社は、http://www.sizensya.or.jp/
日捲(めく)りのひとこと案内カレンダーの頒布の収入で、
活動の原動力を得ている真面目なところです。それで、松本善之助先生に、応援を送って下さいますようにもなったのですね。
ここでの講義は、10年近く続きましたでしょうか。
そのうちには、
京都での研究会も並んで開催され、記紀との照合比較の講義研究をじっくりと受けることが出来ました。
そもそもが、
松本先生からのご指導のこと、わたくしの場合は個人指導が中心で、
そのおまけに、大阪や京都の研究例会、後には名古屋に出席という感じです。
系図をどういうように作成してゆくか?
年表をどういうふうに作成してゆくか?
記紀との比較表をどういう風に作ってゆくか?
前向きな基礎の仕事を進めてゆく上でのご指導です。このような研究の先端のことは、「例会」では何ら話題にも登りません。「例会」は、そんなことです。ほとんどが、お手紙、や、お葉書きが中心のご指導です。何しろ、お葉書きが一日に3葉到着することもありました。そして仕事をすすめるのは私であったわけです。
どうしてわたくしは手紙か? といいますと、顔を合わして、何か言っても「ダメじゃないか! キミー!」とやられて、タジタジで一言もしゃべれませんからでした。
それで、「松本善之助塾」と私称しています。「例会」だけに、やっとこせと出席するだけとはワケが違うからです。 それで、「松本塾」です、小さな小さな一粒ですが、大宇宙の開闢も小さな小さな一点から始まったようです。
しょっちゅう、お手紙やお葉書きでの遣り取りをしてましたから、毎日新聞社『秘められた日本古代史ホツマツタヘ』の原稿の清書(と言っても読み易くするだけ)を仰せつかったのでした。松本善之助先生の字は、特徴的でちょっと見にはフツーの人には読めませんから。特に、毎日版の時の原稿は、松本先生ご自身でも読めないような事々であったと、お認めになられてます。
本当に、筆舌にはとても尽くし難きご指導を、松本先生から賜りましたです。
この以降については、あれこれ書き記したものにも、散見できるかと思います。
参考 → 「わたくしの戦争体験」
∞ ∞
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古史古伝、は「偽書」です。 お間違えなく!
「秀真伝」も「偽書」の一種です。
「秀真伝(しゅうしん でん)」は、ヲシテ時代の人名を
漢字表記してるので、スグ分かります。 お間違えなく!
せっかく見つけた、漢字以前の高度な縄文日本の文明、
なのに、外国文化の色眼鏡で貶めて見ようとする、構造的な間違いです。 偽書ですね、気持ち悪いですね。
共に、即、廃棄してください! 捨ててくださいね。
偽書運動には、終末を迎えさせなくてはなりません!
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そのようなきっかけでしたか。
以前、大阪での勉強会は松虫の自然社でやっておられたと伺い、うちの学校が松虫にあるのも何かのご縁かと感じた次第でした。
どうも、数奇なめぐりあわせによって、ヲシテの研究は進んでいくようです。ありがたい限りです。
すたるみち つむぐゑにしか
あめつちの みをやのうるに
ひかれつどいひて
投稿: ひらおか | 2009年12月 1日 (火) 12時49分
先日お伺いしましたとき、
自然社の綺麗に建て替えられてあるのを、
拝見しました。
30年前の、古風な建物はおもかげもありませんでした。
夏は暑かったですが、さくらの樹の下で涼んだ思い出があります。
このところ数年になりまして、
人間力に優れた立派な人が、
ヲシテの門をたたいて下さいますようになりました。 昨夜もでした。不思議さのこと、特別にまたまたびっくりする人でした。
わたくしの、ヲシテとの出会いを、
記しておこうと思いました。
不思議な不思議な見えないご縁が何かしらあるように思えてなりません。
投稿: いけだ | 2009年12月 1日 (火) 15時39分
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昭和62年6月(古文献・161)の…「君臣遺し法のアヤ(ヒの28)を読む(5)…の講義を受けた時を最初の講義とさせて頂きまして、10月の講義の時迄、私は参加させて頂きました。私の説は松本義之助先生の説とは少し違っていたので、それ以後は参加していませんが、今、思い返せば、懐かしい思い出となっています。
投稿: 小島,宏 | 2011年8月24日 (水) 14時33分
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そうでございましたですか。
月日の流れゆくのは早いもので御座います。昭和62年からは、随分と研究も進みました。
あれこれ、それ以来の格段の新たな解明の新境地に付きましてのご理解をと、存じます次第で御座います。
投稿: いけだ | 2011年8月24日 (水) 16時58分