富永仲基の『出定後語』の自序のこと
富永仲基は、私のとっても尊敬している人です。
著書の『出定後語』の自序文は、 (しゅつ じょう こう ご じょ)
彼の、面目躍如です。 彼は、自分の事を「基」
と自称しています。
<隆文館版、1982>
どう伝えるか?
『この説を持っている事、10年程にもなるが、
誰に話しても人々はさっぱり解らない。
… 中略 …
自分の体は病が進んで来ている、ため。
これを伝えて、他人の役に立つようにする事が出来ない。
… 中略 …
わたくしが死んでも無意味とならないのではないか。(不朽)
… 中略 …
すなわち、後世の学者が手分けして探究し、
この、自分の説を、補足することを望む。』
富永仲基は、この『出定後語』の出版の後
数年で32歳程で、亡くなってしまわれたことを、
悲しくは思いますが。
その、命の炎は十分な燃焼をし尽くしたと、
推察します。
ちなみに、
延享元年は、西暦の1744に当たります。
富永仲基さんの、発明は、「加上」の原理の発見にありますが、
その、心の発露(何故に為し行かねばならないか?)の根底が、
「善」にあること、このことを見据えた事です。
つまり、ある意味におきまして「トのヲシテ」と同一性が認められるのです。
それで、わたくしは、特段に富永仲基を尊敬しております。
参考→本居宣長
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古史古伝、は「偽書」です。 お間違えなく!
「秀真伝」も「偽書」の一種です。
「秀真伝(しゅうしん でん)」は、ヲシテ時代の人名を
漢字表記してるので、スグ分かります。 お間違えなく!
せっかく見つけた、漢字以前の高度な縄文日本の文明、
なのに、外国文化の色眼鏡で貶めて見ようとする、構造的な間違いです。 偽書ですね、気持ち悪いですね。
共に、即、廃棄してください! 捨ててくださいね。
偽書運動には、終末を迎えさせなくてはなりません!
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コメント
この記事へのコメントは終了しました。
すでにご存じのこととでしょうが、富永仲基さん加上説は 佛教におきましても大変先進的で当時の佛教界では受け入
れがたい説すなわち大乗佛教というのは時代経過ともに色々なものが書き加えられ、本来のお釈迦さまの時代
とはずいぶん違うはづであるとしてきされ、当時(江戸時代)の佛教界はら総すかんを食らったようです。
しかしながら、明治以降とくに欧州学者がインドの原典 パ-リ-語仏典などにより 大乗佛教はお釈迦が説かれた
ものでないことが判明しました。漢訳経典は後代の説法士などが創作したものだったのです。
富永仲基さんは江戸時代の佛教界から迫害を受け評価されませんでしたましたが、明治中頃の佛教研究者から 彼の
考えが正しかったことがわかりました。 誠に100年もの先見の明のあった方だと思います。
池田先生のヲシテ研究も後代には富永仲基の」ようだったという評価が下されるといいですね、ご努力感服いたしま
す。
投稿: 森田和義 | 2018年10月 1日 (月) 14時45分