言葉における、時代性のこと, その2
前述の記事の、「言葉における、時代性のこと」にて、
言葉には、時代性があることをお話しました。
ヲシテ時代の言葉の解釈はどうあるべきか?
について、もう少し詳しく述べましょう。
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ヲシテ文献が、記紀(『古事記』『日本書紀』)の原書であることがわかりました以上は、
その後に記された、漢字文献は重んじるべきでないことが、理解なされる事になります。これは、論理的に考えて、最も自然なことです。特に、記紀(『古事記』『日本書紀』)はヲシテ文献からの「誤訳」が多いのですから殊更に注意されなくてはなりません。
それで、なのです。 ヲシテ文献内にある言葉こそが、
ヲシテ文献を読み解いてゆくにふさわしい言葉なのです。
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そんな事から、
以下のような感じでイメージをしてもらうと良いのではないでしょうか?
~ ~ ~
ヲシテ文献を解読するための言葉
ヲシテ文献内に存在する言葉 …… 100%の信頼性
○
漢字文献時代の初めから、奈良時代までに
存在の認められる言葉 …… 30%の信頼性
○
その後、平安時代までに
存在の認められる言葉 …… 30%の信頼性
○
その後、江戸時代までに
存在の認められる言葉 …… 10%の信頼性
○
その後、現在までに
存在の認められる言葉 …… 3%の信頼性
~ ~ ~
「ちくら」の言葉は、九州の北部の海を意味しているのですが、
江戸時代になって、ひょっこりと、記録文に現れます。
このような例もありますから、後世にしか記録文に表れていない言葉でも、
時代が溯れないからと言って、あながちに、軽んじてしまうばかりが能でもありませんが、おおよそは、時代の下るにつれて、古語ゆかりのものだとする、その信頼性は上記のように低くなると理解為されてしかるべしでしょう。
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古史古伝、は「偽書」です。 お間違えなく!
「秀真伝」も「偽書」の一種です。 お間違えなく!
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偽書運動には、終末を迎えさせなくてはなりません!
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