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2007年1月 9日 (火)

文書のかたち、「ふだ」とは? その6  涌谷町の黄金山神社のこと

ヲシテ文献の世界は、とっても広大ですね、

「文書」のことを、一つ調べようとしただけでも、ゾロゾロと、

まだまだ、 まだまだ、

(と)め、処(ど)も無く続いて行くわけであります。

         ∽

そんな中、極めて珍しい金属での「文書」なる‘かな あや’の、

こと、

これは、とっても面白いので、ご紹介しておきたいです。

これは、

『ミカサ  フミ』の貴重な文面を、江戸時代の溥泉(ふせん)さんが

残してくれた、引用文(『春日山紀』にある引用文)にあります。

Photo_239

           <『校註ミカサフミ・フトマニ』120ページ>

           <『記紀原書ヲシテ』下巻、577ページ(こちらはルビなし)>

時は、縄文時代と、弥生時代の狭間のような頃です。

8代アマカミ(古代での天皇陛下)のアマテルかみ、の

その、妹君(いもうと きみ)の、ヒルコ(わかひめ)さまは、

とっても優秀なお人であられたのでした。

「にふ」とは、水銀のことです。

水銀のアマルガム法による、金メッキの技術を、

祖父のトヨケかみ、からの技術伝授に与(あずか)ったほどの、

それ程に素養と、努力の極まってのおいででのお方であらせられたと、

わたくしは、理解しております。

水銀のアマルガム法による、金メッキの技術は、‘そめ ふた’と呼ばれたのですね。

伊勢神宮の建築で、木口の防腐と装飾を兼ねた金飾りが付けられてあります。

この金飾りの、実在の根拠としての事は中世(奈良時代もつい、中世といってしまいます、わたくしです)の文献にも残っておりまして、

正倉院文書に、文章が見られます。これは天平19年(747)のご遷宮の為の記録です。

また、絵図は『永禄遷宮金物図』(天正13年・西暦1585年)があります。

詳しい調査報告は、『伊勢神宮の建築と歴史』(福山敏男・日本資料刊行会、1976)が良いでしょう。

銅に、金(ゴールド)の水銀アマルガム法によるメッキ技術で現在にも連綿と受け継がれているのは、この『ミカサフミ』記載の伝承通りとして理解できます。

(ゴールド)のことは、‘こかね’と呼ばれていまして、

『ホツマツタヱ』に典拠があります。

Photo_241

      <『定本ホツマツタヱ』206~207ページ>

      <『記紀原書ヲシテ』上巻、277~278ページ(こちらはルビなし)>

    ―大意―

ワカヒコ(あま の こやね)さんが、東北地方にご出張であったときの事です。

当時の、首都は東北地方にありまして、

8代アマカミの、アマテルカミの後を、

その皇子のミコの、オシホミミさんが、9代アマカミとして御即位に、

なられて、都は、「たか の かう」と呼ばれ東北地方に置かれたのでした。

そして、ある日の事、

ワカヒコ(あま の こやね)さんが、宮中に伺候した時、

「こかね の はな」の詳しい話を質問したのでした。

そこで、

9代アマカミのオシホミミさんの、

義理の父に当たるタカギ(7代タカミムスビ・ウホキミ)さんが、

答えて述べたのでした。

‘ヒノキミ(アマテルカミ)’の宮を護っているカラスが、

(くち)に銜(くわ)えた‘こかね(ゴールド)’を吐き出して飾るのです。

それで、アマテルカミのお宮は‘こかね(ゴールド)’でピカピカになったのです。

イサコ(イサナミ・イサコヒメ)さまは、アマテルカミの御母上であられるのです。

我が祖父のトヨケカミは、

「イサコ(イサナミ・イサコヒメ)産み子も しかしか と 

と、おっしゃっておられたのは、

この事でした。

砂金の産出は、黄金山神社に見られます。

また、日高見神社の近くにも砂金の産出があります。

ワカヒコ(あま の こやね)さんでなくとも、

「ひさみるやまと 讃えたまひき」

と、

叫びたくなるようです。

      …   ・   …

そんな中、

金属での加工の技術を習得なされておいでであった、

8代アマカミ(古代での天皇陛下)のアマテルかみ、の

その、妹君(いもうと きみ)の、ヒルコ(わかひめ)さまは、

「文書」を、金属で鋳造することを創出なされたのでした。

これを、‘かな あや’と名付けられてもおられます。

     ~   ~   ~

面白いですね、

かな あや’なら、これは、ひょっとすると、

約3000年ぶりの出現も、もしかすると可能かもしれません。

深く・密かに・フツフツと、わたくしの期待しておりますところです。

こがね(金・ゴールド)の輝きに溢れる千木(ちぎ)の、その光り輝く様な、

そのような輝きの‘ヲシテ’を、本当のところ是非とも目にしたいと思います。

それが、

かな あや’なのですね。 金属による「文書」なのですね。

ワカ ヒメ さまの、ご努力に一目遭遇したきものです。

一日も早い発見を、

このことを、祈りおります日々で御座います。

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