縄文文明を理解するための、ある種の覚悟
『定本ホツマツタヱ』の、序文(緒言)にも書いた事ですが、
縄文文明を理解するためには、
ある種の覚悟が必要になります。
つまり、記紀(『古事記』『日本書紀』)の原書の発見がなされた。
この、事実について、真摯な態度での理解があるのかどうか?
・ ・
ここに、
充分な理解がないと、
従前に行われていたような、漢字文献の記紀(『古事記』『日本書紀』)を
もととした、歴史の常識と見比べるような、そのような態度をとる事にも繋がる。
このような、基本姿勢は、ある意味不遜な態度であると、わたくしには思えるのです。
翻訳前の原書のヲシテ文献を軽んじて、誤訳後の記紀(『古事記』『日本書紀』)を重んじる。
これは、いわば逆転の価値判断であると、このように考えるのは、私の間違いなのでしょうか?
・
「土俵を変えるのだ」 とは、故松本善之助先生のお言葉でした。
このことを、『定本ホツマツタヱ』の緒言では、次のようにまとめておきました。
誤訳前の原書こそが、最も尊ばれるべきだ。
この覚悟に、至らなければ、何にもなりません。
« ‘あもにふる’の、書 | トップページ | 『万葉集』 982番の訓(よ)みについて »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント